novel
「賢者の樹 〜 花王冠の夢 〜」番外編



水底の星(みなそこのほし)

 かつて春の到来直前に没したロヴァニア王国は、賢者の樹と救国の乙女らによって再び春を取り戻した。
 だが、新しい未来を掴んだ手に失われたものが返ってくるわけではない。
 暗黒月に入って二週節目最後の日――十二日は、眠りの日。失われたものを悼んで、国全体が喪に服す。
 そうして眠りの日を終えると、ロヴァニアには春が訪れる。
 冬を押し流す風はまだ冷たく身体に触れ離れていくが、降り注ぐ日差しも空の色も取り巻く空気も既に春のものとなっていた。
 暗黒月の二十一日。その日、リンディは十七年目の春を迎えた。
 彼女は、一部を除けばサウラの若き領主アベリュスト・エル・ディアスの預かりっ子という位置づけで扱われている。サウラの民には好意的に受け入れられているが広くは身内と認識されておらず、祭などは開かれない。
 慎ましくその日を迎えられるのは、かつて誕生日を苦手に思っていたリンディにとっても幸いなことであった。

 冬を取り込み彼方へと運んでいく風。その冷冽な流れを越えて届く、暖かい光の感触がくすぐったい。
「リンディさま、お誕生日おめでとうございまーす」
 朝と昼の間の時間帯。森から出て裏庭を歩いていたリンディは、明るい声と同時にわっと複数の影に囲まれた。
 緑の館の陽気な使用人たちだ。毎度のことながら、どこに潜んでいたのか不明ではある。
「マルトさんが探していましたので、手伝おうと思いまして」
 朗らかに言った料理長に、女官のエリスが補足をした。
「絶対掴まえられると思って裏で待っていましたの」
 伏せた籠にかかった鳥みたいなものなのかな、と思いつつリンディは小首を傾げる。
 構わずに、賑やかな使用人たちは口々に祝いの言葉を述べた。
「おめでとうございます」
「おめでとうございます、お嬢さま」
「料理長は、朝言ったって威張ってたじゃないですか」
「祝いの言葉は何度でも言っていいんだ」
 皆が笑っていた。嬉しいような恥ずかしいような気持ちが胸を満たす。
「ありがとう」
 誕生日が嬉しいものだということを思い出させてくれたのも、彼らだった。
「なにもかも、生きているからこそですわよね。きっと」
 ふと、真面目な口調で女官のミティアが呟く。
 時折、彼女は哲学じみたことをさらりと言う。恐らく何気なかったであろう言葉が深い場所に滑り落ちた。
 翠の視線に気づいて、ミティアはきょとんと目を見開く。
「どうかなさいました?」
「ううん。なんでもないの」
 用事が待っていると言うことで、至極残念そうに手短に話を切り上げ、彼らはリンディを館に戻した。
「リンディさま、アベリュストさまが応接でお待ちですよ」
 裏から入った玄関ホールの階段脇で羽織ったショールをするりと外したところで、マルトに声をかけられた。彼には、朝顔を合わせた際に感極まった表情と共に祝いの言葉をもらっている。
「表じゃない方でいい?」
 彼女の手からショールを引き取りながら、執事は頷いてみせる。
 館一階の左奥、執務室の手前にある応接間は会議室を兼ねており、公的な使用を目的とされていた。一般的な来客や家人のくつろぎの場としては食堂隣の応接間――区別するために、こちらは「表の応接」と呼ばれている――が使用されるのだが、仕事の合間にアベリュストがくつろぐのは大抵表ではない方の応接間だった。
 とりあえず執務室から出たい、だが食堂の隣までいくのは面倒だ、ということらしい。
 礼を言ってマルトと別れ、リンディは淡緑と黄色の石が填め込まれた廊下を進み応接間の前に立った。

 控えめに扉を叩く。
「リンディです」
 返事を待って部屋に入る。早春の日差しに抱かれ優雅にソファにもたれるアベリュストと、お茶の用意をしている女官のフェミナがいた。
 陽を受けた彼の蜜色の髪が、燃えるように濃く耀いている。
「おいでなさい」
 呼ばれて、リンディは彼の隣に腰を降ろした。
「誕生日おめでとう、リンディ。朝も言いましたけどね」
 アベリュストは、にこにこしながら青い包みを手渡す。水色と青を何枚も重ねた包装紙の上には、濃い青の細いリボンが幾重にもかけられていた。
 簡潔に見えて手の込んでいる美しい包装に、リンディは束の間見惚れる。
 崩すのがもったいない。けれど、開けないと中を見ることはできない。
「ありがとう。開けてもいい?」
 頷いたアベリュストの前でリボンを解き、紙を破らないよう慎重に取り出す。リンディは手の上に乗せたそれをうっとりと眺めた。
「綺麗ね」
 温もりのある光沢。控えめな装飾が本体の美しさを際立たせる、金の髪留め。
 深い翠をした小粒の貴石が一つ填め込まれていた。
 アベリュストが、リンディの手から髪留めを拾い上げた。そのまま伸ばした手で彼女の長い髪を梳く。絡まることなく指の間を流れた髪を器用にすくって、髪を留めた。
 青い目が細められる。
「似合いますよ」
「……ありがとう、アベル」
 一瞬浮かべた面映そうな表情は、すぐに眩しい笑顔に変わった。
「おめでとうございます。本当にお似合いですわ」
 にこりと笑って、フェミナがお茶を差し出した。はにかみながら、ありがとう、とリンディが答える。
 そんな少女の様子を慈しむような笑顔で見守っていたアベリュストだったが、ふいに彼女の手を取り、今度は小さな箱を置いた。首を傾げたリンディに、彼は告げる。
「リオンからですよ」
 ――体の奥で、なにかが震えた。
 息を詰めて衝動に耐えてから、ようやくその名を繰り返す。
「リオン?」
「開けてごらんなさい」
 声に促されて箱を開けたリンディは、息を呑む。
 慣れない冷たさに、一瞬痺れを感じた。透明な小石。爪ほどの大きさもない小さな球体に、細かい多面の切り込みが刻まれていた。
 虹のように煌いて、それは光を弾く。
 芽吹く緑、深い森の翠、暁に目覚める藍、広がる空の青、澄んだ水の色、重なる波の白、沈みゆく夕日の赤、名残の紫、太陽の金、月の銀――。
 散った淡い粒子までもが冷たいような感覚をもたらすが、掴むことは叶わない。
 日光が当たり、キン、と澄んだ高音を奏でた。思わず日にかざしたリンディは、ふと気がついて目を凝らす。
 差した光を受けて、なにか模様が見えたような気がしたのだ。
「賢者の樹?」
 小石の中心に浮かび上がる薄い影は、枝葉を伸ばした樹。まるで、樹が飛び散る光を生み出しているかのように。
「おや、見事ですね。珍しい、星晶石ですか」
 横からひょいと覗いたアベリュストが、感嘆の声を上げる。
「遠い北国にある湖の底深くに沈んでいる石です。冷たく澄んだ湖底で星の光を映して輝く。空気に触れると、光に反応して音を奏でる。昼も夜も美しいですよ」
 添えられたカードには、祝いの言葉が短く書かれている。見覚えのある端正な筆跡に、どこかわからない部分が締めつけられるような気がした。
「寂しいですか? 一年近く会ってませんね」
 揺れる翠を俯いて隠し、リンディは首を振った。
 子どもの頃、彼は誕生日の時も無理してサウラにきてくれていた。
 でも、もう子どもではない。会いたいのなら、王都ブランシュ・アルトに出向けばいいのだ。
 わがままだと思うから、きてほしいとも言えない。なにも言えず行動も起こせない自分が、寂しいだなんて言ってはいけないと思う。
 けれど時折、押し殺した声が体を駆け巡り、苦しくなる時がある。そう、今みたいに。
「あら、そんなになりますか。意外に自信家なのかしら」
 棘の欠片も感じさせない無邪気な口調でフェミナが独りごちた。アベリュストが苦笑を堪える顔を見せる。
「悩める青少年なんじゃないでしょうか。いろいろと忙しいんですよ、きっと。多少は大目に見てあげてください」
 しばらく沈黙をためた後、フェミナはかすかな溜息をついた。少し呆れたように頭を振る。くるりと巻いた髪が肩の上で踊った。
「結局のところ、アベルさまはリオンさまに甘いと思います」
「リオンに聞かせたい科白です」
 口元に微笑を刻んで、アベリュストはだれにともなく呟く。相も変わらずのんびりとした、緊張感のない口調で。
「我慢のしすぎは体に毒ですけどね。深刻病に呑まれてしまわないように」
「呑気な方が仰る深刻度って信用できませんわ」
「見習ってほしいですね」
 いたずらっぽく混ぜ返したフェミナに青い視線を流してから、彼はリンディに向き直った。少女は黙りこくって星晶石を見つめている。
 その細く頼りない肩を広い手で包み、覗き込んだ。
「夜はご馳走だと、料理長が張り切っていましたよ。食べ終わったら、手紙を書きましょうね」
 けっして温まらない、氷のように冷たい星晶石。
 手をすり抜けた清浄なる光の粒は、どこか痛みを伴って胸の底へと沈んで消えた。
「……うん」
 透明の小石を握り締めて、ゆっくりとリンディは目を上げる。かち合ったやさしい瞳に重なった面影を一瞬だけ追ってから、笑ってみせた。
 翠月祭まで、もう少し――カードに書かれていた結びの言葉を、壊さないように大切になぞる。
 感じたものは、身の内に留めていたいと願う。空になってしまわないように。
 いつか会える日のために。
 最初ぎこちなかった笑顔は、やがて重なる雲の合間から滲み出る陽光のごとく広がっていった。
「いい子だ」
 そっと引き寄せて、アベリュストは少女をやわらかく抱きしめた。

 深い水底で星を映しながら音もなく揺らめく小さきもの。玲瓏たる光の結晶。地上に在りて尚煌々と輝く。
 それは、手に捉えることは叶わない星の光。





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