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 縦と横の大通りが交差する街の中心に広場はある。緑の館が開放されない今年の翠月祭は、例年以上にこの広場に人が集中することになるという話だった。
 時間の関係からか、通りよりも広場の方が人数が多い。所々に出店も構え、パンの香ばしい匂いが鼻をかすめる。リンディと離れないよう気を配りつつ、ファーンは広場を横切った。
 思い思いに憩い歓談をしていた人々が、リンディの隣にいる見慣れない男、つまり自分を見つけて驚きと好奇心の混じった視線を投げる。投げるだけではなく、実際に話しかけてくるのがサウラの民だ。
 挨拶の波をかいくぐりつつ、広場を抜ける。
 神殿に近づいたところで、リンディの足が止まった。翠の瞳が神殿を見上げる。底の知れないような、あの深い眼差しで。
 彼女の横顔を見ていたファーンは、その視線をたどってゆっくりと神殿へと目を戻す。
 階段の上に見える、横に長い建物。天井を支える太い列柱。柱頭には調和の象徴である常緑の葉が刻まれている。そして、光と闇の神話を題材に装飾を施された白い壁。
 灰色の空を背景に、いささか古びた小さな神殿はくすんだ色に沈みながらも凛とした空気をまとって厳かに佇んでいた。
 彼女がなにを思っているのか知りたい、とファーンは思う。そして、その思いは同時に強い罪悪感を伴った。
 この国に対して負の感情の欠片さえ持っていないらしいことは、これまでの様子を見ていればわかる。ロヴァニア、というより、サウラの空気に馴染みきっているように見える彼女からは異国のにおいなどまったく感じられなかった。
 その点に関しては、自分が唯一知っていた彼の国からきた人とは違う。
 ロヴァニアに来た時、彼女があまりに幼かったからだろうか。侯爵かリオヴェルトの教育の成果なのか、それとも他に理由があるのか。すべてだろうとは思うものの、確かめられるものはどこにもなく、ファーンはどこか収まりの悪い思いを解消できずにいる。
 習慣は消せても、出生は消せないのだ。
 ロヴァニアの事情に引きずり込まれた彼女は深い翳を刻むことになった。《詩》として求められ応えようとする彼女の中から、その翳を拭うことは不可能だ。うまくいかないかもしれない、と言う彼女に誰が道を示してやることができるのか。
 ローヴァンの末裔として生まれ、ユンゲルグの母を持つ彼こそが、その無力さを最も噛み締めているはずだ――賢者の声を聴き連れ出したのが他ならぬ彼だからこそ。そして、痛みを隠そうとするから尚さらに。
 ……一度傷を抉っておいて今さらと自嘲しながらも、ファーンは恐れていた。異国の気配を探る視線を感じただけで、敏感な彼女は傷ついてしまうかもしれない。
 それでも、こうして神殿の前に彼女と立つと思わずにはいられなかった。
 一神教のユンゲルグから多神教のロヴァニアへと移り、光と闇の狭間で風よりも不安定に漂う彼女はあまりに頼りない。それでも、守ろうとするという意思を秘めている。
 《詩》でありながら寄るべく者との絆さえ儚いような生い立ちを背負う彼女は、神殿になにを見、そして与えるのだろう。
 心細いか、と喉元まで上がってきた言葉をファーンは呑み込んだ。
 その時、場違いに弾んだ声が耳に届く。
「あっ、リンディさまぁ」
 階段の上に、影が三つ現れた。
 女官二人の横にいる男は、服装からすると神官だ。動きにくい長衣を引きずり、少女らと肩を並べて階段の際まで歩み寄る。
 ファーンとリンディはゆっくりと階段を上り、その前までたどり着いた。出迎えた若い神官は、ぴょこりと頭を下げる。
「はじめまして! あなたがファーンさまですね。私、サウラ聖神殿の神官を勤めているウィントと申します! お待ち申し上げておりました」
 快活な声に健康そうな頬。大きな丸い眼鏡。その奥にある人懐こそうな大きな眼。くせ毛なのか寝癖なのか、後頭部と襟足の髪が思い思いの方向に跳ねている。
 どこをどう見ても威厳というものが見当たらない。ディアス侯爵と同年齢だと聞いていたのだが、自分と同じくらいの年に見えてしまう。
 意表を突かれて、またしてもファーンは挨拶を返すのが遅れた。修行にはもってこいの土地なのかもしれないと思いつつ、ファーンは口を開いた。
「失礼。ファーン・エル・グリークです。どうぞよろしく」
「こちらこそよろしくお願いいたします。こちらへどうぞ」
 言って踵を返した神官に、女官が心配そうな小声で話し書けた。
「あの、先ほど仰られていたご用件はお急ぎでは……」
「わあっ、ミティアさん。こんなところで駄目ですよっ」
 慌ててウィント神官が遮る。余計に気になるではないか。
「……何か?」
 問うた途端、爪の先までサウラ仕様のような神官は再び勢いよく頭を下げた。
「その話は後ほどゆっくりと……いえ、失礼いたしました。申し訳ありません。出かける用事ができまして、ミティアさんは心配してくださってるんですね。本日中にバドン村へ発ちますので、一、二日ほど神殿を留守にさせていただきます。よろしいでしょうか」
 街長に話をしたのかと問うと、つい先刻、と頷いた。随分急な話だ。街長の家から出てさほど時間は経過していないところから、ちょうど入れ違いのようにして連絡が入ったのだろう。
「手続きをすませてもらえば、私は構わないが」
 眉を上げて理由を促すと、ぐりぐりと髪の毛を捻りつつ引っ張りつつ、彼は困ったような表情を浮かべた。
「ごめんなさい。街長の息子さんが調整に出向いてたんですけど、なかなか解決しなくて」
 外出だというのがここで結びつくのか、と話の内容に引っかかる。
「調整?」
「はい、翠月祭で出すお酒のことです。総数をうまく割れなくて、一樽分をどの村が負担するかで揉めてるんですよ。どうも意地の張り合いみたいになってしまっているみたいですので、私が仲介役にと……つい今しがた連絡が届きまして」
 何とも微笑ましいような揉め事ではあるが、当事者にとっては真剣な問題だろう。それに、小さな領地で事がこじれるのは好ましくない。
 それは大変だと答えると、神官はしゅんと体を縮めて謝った。まるで怒られて項垂れた犬のようだと思う。
「どうしても収拾がつかなかったら街長から相談してもらうという話になっていたんですが、その前に私が出向くことになりましたので、後ほどお話の中でお伺いしようと思っていました。こんなところですみません」
 普段侯爵がどのような方針で統治しているのかはわからないが、とりあえずファーンは彼らのやり方をよしとした。 逐一進行形で細部に渡って報告を入れる必要はない。
 恐らくは、あの山のような書類のどこかに報告書が埋もれているのだろう。
 たとえ諍いがあっとしても、取り返しのつかない事態になるような心配はサウラでは考えにくかった。翠月、特に今年はより注意が必要とされ、そのためにサウラに連れてこられた自分ではあるが、今現在直接サウラの施政を執っているリオヴェルトがこの件を把握していないとは考えられない。していなかったら、逆に街長の息子の不在について何か一言あったはずだ。
 ということは、自分が積極的に関わる必要はないと彼は判断している、と受け取っていいだろう。問題なしと判断して自由に領民に任せているのか、王との別の者に対応させているのかまでは知らないが。
 特に言及がなかったということは、そういうことだ。
 先に言えと思わなくもないが、書類を押しつけられるきっかけを与える可能性がとんでもなく高いような気がするので、やはりよしとすることにする。後で嫌味ったらしく確認だけとってやろうとは思うが。
「いや、そんなことは気にしていただかなくても結構ですが」
 どうしたものか。ファーンはサウラが抱える村の特徴と経済状況を脳裏に並べ立てる。
 顎に手を当て考えをまとめようとした時、控えめに服の裾を引っ張る手に気がついた。目を向けたファーンは驚愕のあまり固まりそうになる。
「館が出しては駄目ですか」
 耳打ちに近いような小声で提案したのは、これまで黙って聞いていたリンディだった。神官に聞こえないよう気遣っているせいで、顔が考えられないほど近くにある。
「今年は館の庭を開放できないから、埋め合わせで許してくださいって」
「……ああ、そういうことなら構わないと思うが」
 控えめな表現になってしまったが、実際妙案だと思う。それに彼女の提案であれば、勝手に決めても侯爵も文句は言わないだろう。
 かろうじて首を縦に振ると、リンディは嬉しそうな笑顔を浮かべて礼を述べた。生じた動揺を胸の奥底に押し込みながら神官に目を移す。
「今年は庭を解放することができないので、お詫びに館が出すことにします。と、彼女の提案ですが」
「うわぁ、ありがとうございます! ありがとうございます、リンディさん、ありがとう。これでうまく収まると思います! 皆も喜ぶでしょう」
 彼は顔を輝かせて、ぺこぺこと何度も頭を下げた。落ち着きのない神官だ。ディアス侯爵とは別の意味で、十歳近くも年上の男だとは思えない。
 新しい調理法の料理にでも出会った時のような物珍しい気持ちで、ファーンはしげしげとウィント神官を眺めた。
 神殿の頂点に立つ大神官は、代々六爵家の後継を外れた者の中から選ばれる。そのせいか身内同等の近しさを感じてはいるのだが、総じて頑固上司を彷彿とさせるような固い者が多く、苦手意識がつきまとうのも確かだった。
 今まで抱いていたの神官像を覆すような男だ。笑ってしまいそうになるのを堪えて、ファーンは口を開いた。
「他に問題は?」
「今のところないです」
「では、我々はここで引き上げることにします。できるだけ早く経っていただこう」
 首を傾げる神官に、さらりと伝える。
「別件として、ジュノザ、レイシュ、サージ、どこの酒がいいか意見をまとめて館まで報告していただきたい。また諍いになるようなら話は撤回だ。用意する時間が要るので早めによろし……」
「ありがとうございますっ!」
 最後まで言わせてもらえなかった。
 手を握り締め感激の涙を浮かべて恐るべき勢いで腕を振り回す神官を、宥めつつ神殿に押し戻し準備させるのに妙に時間と気力を使ったような気がする。
「……疲れた」
 軽い溜息をつく。お約束のように、館でのんびりと寛いで机に向かっているであろう男の姿が理由もなく思い浮んだ。呑気に茶など飲んでいるのだろうか。
 書類の内容はこの際脇に置いて、恨めしいような気持ちになる。

 二人増えたことによっていきなり賑やかになった一行に、好奇心と親愛とがこめられた温かい視線が投げられる。人影の減った広場をゆっくりと散歩し店をひやかしながら、程なく到着するであろう馬車を待っていた。
 街長の馬小屋を少々拝借して、今度はクルトに時間を与えていたのだ。程なく、というのは、女官と館のお嬢ちゃんが口を揃えて「クルトさんは『かたい』ですからすぐに来ると思います」と主張したことによる。
 気の利く店主の人払いと意外に頼もしい女官二人の人さばきのおかげで、挨拶の嵐から解放されたファーンはほっと一息ついた。出店の親父とにこやかに談笑している少女を横目で見やりつつ、ゆっくり来てもらっても構わないな、などとうっかり思っていたところに女官たちの会話が耳に入った。
「譲ってくれたフェミナさんにはなんだか申し訳ないですね」
「あ、そうですね。神殿へのお使いは中止ですもんねー」
 並べてある小物を眺めながら囁き合っている二人を振り向く。すると、目に浮かんだ疑問を読み取ったのか、くすくすと笑いながら仲良く交互に説明を寄越した。
「フェミナさん、神殿苦手なんですよ」
「堅苦しい雰囲気が苦手なんですって」
 ファーンは首を傾げる。妙に肝が座っているような変わった女だと思いつつも、主に代わり館の常識を守る人物その二だと考えていたのだ。複雑な感情を殺して、ぞんざいに呟いた。
「へぇ、意外だな」
 綻びの芽はこんなところにもあらわれるのだろうか。まるで、おこしてもおこしてもいつしか虚しく消えてしまう炎のようだ、とファーンは思った。
 時の流れの中で伝説の効力は簡単に薄れていく、と語った主君の言葉が蘇る。
 王や血――《無名の騎士団》、歴史書などを通し、賢者の樹を常に意識して育った自分の方が特殊な環境にいるのだという自覚は、あった。たとえ貴い者と最も近くに住まう幸運な領民であっても、それを知らなければ伝説かおとぎ話のように遠いものと感じることだろう。
 だが、ロヴァニアの結束を固め、また守ってきたのは他でもない、その「伝説」なのだ。
「意外ですよねー」
「でも、お気持ち分かりますわ」
 こっくりと頷いたエリスの横で、ミティアがいたずらっぽい笑みを口元に浮かべる。
「何と言いますか、こう、ぎゅーって心臓を締めつけられるようなといいますか、落ち着かなくてどきどきさせられるといいますか、窮屈で変な気分になるんですわ」
「そんなことを言っちゃ神様たちが悲しまれるわ。……でも、神様も賢者の樹も本当は窮屈だって思ってたりしてね」
 リンディが冗談めかして女官をたしなめた。それから、慌てて謝罪した二人を安心させるようにやわらかく笑いかける。
 他意を見せない笑顔が、視線が絡んだその瞬間だけ揺らいだ。わかっていると頷いてみせると、安堵したような、それでいてどこか頑な表情を浮かべる。
 笑える話題ではないことは彼女こそが身に沁みて理解しているだろう。だから、明るく流して浅い部分で済ませた彼女の胸のうちを探ろうとは思わない。その判断に口出しするつもりなどなかった。
 けれど、思わず養い親の影響を心配してしまう。
 後半部分では顔が引きつりそうになった。彼女の口から発せられると、本当に洒落にならない。
 今度ばかりは女官長の愚痴に共感する。頷いてみせたものの、強引にでも話題を変えずにはいられなかった。
「まぁ、これなら大丈夫だろう」
 とっさに、視界に入った緑の小石を台の上からひとつ取る。多少形がいびつではあるが、質は悪くなさそうだった。

 一瞬赤く沈み、すぐに輝かしい緑の色を取り戻す。光の差さない空の下できらりと煌いた小さな石に目をひかれ、女官たちが声を上げた。
「わぁ、きれい……」
「いい緑光石だな。産地は?」
 親父がにっこりと笑ってサージだと答える。ファーンも顔を綻ばせた。
「ブレノス産なら置いて帰ろうかとも思ったが」
「お安くしますよ」
 おもしろがるような表情で続けた親父に軽く笑い返し、台の上を改めて眺める。小指の先ほどの小さな石が手の上に一つ、台の上に二つ。
 自分の手にある石に目を落とし数瞬考えた後、ファーンは女官を手招いた。近寄った彼女らの手に、台から取った小石をころんと放り込む。驚いたように目を丸くしたミティアと素直に目を輝かせたエリスに説明した。
「サージの緑光石は、持ち主に反応すると言われている。身につけておくといい」
 光や温度、その他幾つかの要因が重なりその時々で色を変える石は、光と闇の間で調和をあらわす賢者の樹を慕ってきたロヴァニアの民に特別な意味をもたらす。布教活動の一環だな、と考えながらファーンは親父と目を合わせて笑った。
 溜息をついて眺めていた女官たちはやがて我に返り、嬉しそうに口々に礼を言う。リンディは、彼女らの様子をそれ以上に嬉しそうな顔で見守っていた。
 と、その視線を感じたのかエリスがリンディを見返す。
「あ……リンディさまは?」
「いいの。あと一つはフェミナのでしょう?」
 おっとりと答えたリンディに、二人が申し訳なさそうな顔を見せる。それに首を振って、リンディはくすりと微笑した。
「私には他の石があるし、教会は苦手じゃないから」
 見透かされている、とファーンは苦笑をもらす。他の石、というのが少し引っかかったが、彼女であれば様々な石を持っていてもおかしくはない。残念な気持ちはあるが、リンディの言うとおり緑光石は彼女に必要ないだろう。
「そうだな。リンディはもう持っているだろう」
 翠の瞳にちらりと目を向けて、ファーンは呟いた。

(04.11.23)








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