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 小さな領地というのは、素朴さと同時にいささか野卑な印象を与えることが少なからずある。だが、ここは違う。王都に近いせいか訛りはなく、老人の言葉遣いも礼儀も田舎という割には洗練されていた。
 一つの街と数個の村を抱えるサウラは、国内でも最小規模の領地である。
 シ・ア・ランスでは領主であるアベリュスト・エル・ディアスの名ばかりが目立ち、その領地について話が広がることなどほぼ皆無であったので、どんな鄙びたところかと思えば隅々までよく管理の行き届いた清潔な土地だった。
 国から保護を約束された場所であるという点を差し引いても、評価は揺らがない。
 リオヴェルトの机にあった書類を斜め読みしたところによると、規模に相応しい程度に財政豊かであり、適度に潤った理想的な領地であるようだった。
 それは土地と民の様子を見ても明らかである。いささか呆れるほどに大らかで陽気なサウラの人々の性格は、余裕のない土地ではなかなか培えないものだろう。

 街長の家は、緑の館より一回りは小さい――王宮裏手にある小トテイアほどの大きさである。
 暖かい団欒といったものがいかにも似合いそうな小造りの居間に通された。アイダと名乗る街長の娘が顔を出す。娘とはいえ、十歳前後の子を持つような年齢の女だ。
 ふっくらとした丸みのある顔立ちに愛嬌のある細い目。人当たりのよさそうな暖かい印象を与える。なんともよく似た親娘だと思いつつ、ファーンは挨拶を交わした。
 入り婿である夫は現在村に出ているのだという。
 アイダが奥に消え、残った老人に物柔らかに椅子を勧められた。刺繍の入った暖色のカバーは、彼女が作ったものだろうか。街長の夫人は亡くなったと聞いている。
 隣に座ったリンディが、さりげなくソファの端に身を寄せるようにして距離を取る様が気になった。馬車の中からそうだった。
 手を伸ばして引き寄せてみたら、どんな反応を返すだろうか。……思った瞬間後悔する。
(なにを考えているんだ。怯えさせるに決まってる)
 透明な壁のようなものが徐々に溶け始めているのは、肌で感じてわかることだった。触れるだけで壊れてしまいそうだと思った最初の頃とは、近づいた時の気配や表情がまったく違う。
 正面から視線をぶつけなければ、逃げることもなくなった。
 一般的なつきあいとしては、それで十分だろうに。
 ふ、と浅い息をついて、ファーンは気持ちを切り替えた。
「あれこれ至らなくて申し訳ない。翠月祭は、サウラに伝わる伝統ある祭だと聞いています。民はさぞかしがっかりしていることでしょう」
 街長をまっすぐに見、まずは緑の館を開放できないことを詫びる。
 実際は、賢者の樹がもっとも不安定になる危険を孕んだ日に館を開放するという慣習があることに驚いたものだ。たとえ表の庭だけであり、日が沈む前までという決め事があったとしても、危険性は可能な限り排除すべきではないかと思った。
 リオヴェルトは、祭を祝う民の気配が近い方がいいこともある、と言っていたが。
 いくらよく管理されているとはいえ、これまで何ごともなかったことが信じられないくらいだ。
「いや、よくお引き受けなさった。サウラの者は皆感謝と共に歓迎しております。大変そうですな。滅多にないことで、アベリュストさまもご苦労なさっているのではないかと心配です」
 街長は同情に近い表情を浮かべた。王都の様子も伝え聞いているのだろう。
 裏の森の小館に「賢者の樹に呼ばれて」国王が姿を隠し《無名の騎士団》が連日集まり、突然に訪れたサウラの領主が拘束されている。
 シ・ア・ランスはさぞかし非日常的な空気に包まれていることだろう。
「ディアス侯爵も突然のことで困惑することが多いでしょう。私はサウラの代理を任されただけですが、残っていたらこき使われていたかもしれません」
 適当に濁しておくと、街長はにやりと笑みを浮かべて混ぜ返す。
「サウラでもこき使われているのではないですかな」
「……まったくです」
 実感を込めて神妙に頷くと、老人は吹き出した。
 ひとしきりの挨拶を終えた頃に、アイダが茶と菓子を運んで戻ってくる。手伝いを、と腰を上げかけた少女をやんわりと制して、手際よく用意を施していく。
 会話に加わる気はないらしく、彼女は用事を終えると早々に下がった。
 手馴れたもてなしには、無駄も隙もない。どこかの貴族の館に招かれているのかと錯覚しそうになるほどだ。
 ファーンは感心しながら背の低い女の後ろ姿を追った。すぐに向き直り、口を開く。
「サウラが良質な香油の産地だったとは知りませんでした。あまり耳にしませんが?」
 今回の件で初めて知った。バルロンを経由して市場に出される仕組みになっているからだ。
 王都より南に下った場所に位置する大領地バルロンはロイド公爵の領地である。なるほどと思ったものだが、民がどう思っているのかは気になるところだった。
 賢者の樹を抱く土地を守るための措置であったとしても、事情を知らない民の目にはそうは映らないはずだ。
「奥ゆかしいじゃろ」
 歓談に入ると、街長の口調がくだけたものになる。彼の人柄によるのか老人は敬えと親に躾けられた所以かはわからないが、不快ではないし失礼だとも思わなかった。
 要するに、いちいち自然なのだ。
 まんじゅうのような体型をした気楽そうな老人が街長だと言われた時は多少驚いたが、よく考えてみれば、この国の王もサウラの領主もやけに腰が低く貫禄がない。今さら驚くことでもなかった。
 知らずのうちに、頭の固い上司に毒されているのだろうか。
 ……いや、なにか惑わされているような気もする。
「身の丈にあった生産を、というのがサウラの方針なんじゃよ。名が売れ手を広げると枯れてしまうからの」
 からからと明るく笑う街長を見て、ファーンは杞憂だったことを知る。徹底的に呑気で欲がないのだ。
 変わった土地だと言えるだろうが、領主の管理指導が浸透しているとも言える。
 アベリュスト・エル・ディアスがディアスを継いだのは、確か今の自分よりずっと若い年齢の時だったはずだ。安定した民の生活をよく守ってきたと思う。
「皆、今の生活で満足おるんじゃよ。のぅ、リンディ?」
 話を振られて、横でおとなしく話を聞いていたリンディがこくりと頷く。
「国がそうだから」
 何気ない口調で彼女は言う。ファーンは瞠目した。
 今日は何度驚かされることだろう。
 外で見る彼女は、少し大人びて見える。緊張していたのか道中は硬さを感じさせたものの、街長と言葉を交わした頃から余計な力が抜けた。
「従ってますって、アベルが言っていました」
 ただ単に聞きかじっていたという程度であれば、こんな風に簡単に、また自然に出てくることはないだろう。
「上に倣えとは、侯爵も意外と忠義に篤いの」
 街長は楽しそうに軽口を叩く。細めた目が皺に埋もれてしまいそうだ。
 彼女も笑顔になり、冗談めいた口調で応じた。
「面倒は嫌いなんですって」
「ほ、そうそう。面倒ごとは嫌いじゃ。引き受けてくれる物好きな領地にお任せじゃよ」
 そういう部分は領主に同調しない方がいいように思ったが、とりあえずファーンは口を挟むのをやめておくことにした。

 南ロード街はさほど広い街ではない。街長の家から神殿までもたいした距離ではなかった。
 街の様子が見たいと言うと、少女は迷うような表情を見せた。
 幼い頃より戦場から宮廷まであらゆる場所に放り込まれて育った自分はどんな場所でも適当に馴染み、切り抜けられる自信がある。だが、彼女は違うだろう。
 装いはその年齢にしては地味ではあるものの、身につけているものの生地も仕立ても上質なものだ。
 万が一の場合は守ればいいのだが、彼女は刃物が苦手だという。不安や危険はなるべく排除したかった。
 役割を果たそうと懸命なのは見て取れるが、夜の湿気にさえ賢者の樹との交流が阻まれることがあるのならば、曇天の日なども心細い思いをするのではないだろうか。
 一人でいいと付け加えると、彼女は首を横に振り、一緒に歩いていくときっぱりと言う。意外に頑固な性質であるらしいことがわかってきたので、ファーンは反論しかけた口を閉ざした。
 同じく一緒にと案内を申し出た街長の好意は、丁重に辞退しておく。至極残念そうな表情を浮かべたところを見ると、単に散歩がしたかっただけなのかもしれない。
 石畳の道を下っていくと、まもなく大通りに出た。大通りとはいえ、小さな街のそれは都とは比較にならない程にささやかなものである。
 風のせいか、多少埃っぽい。が、室内のものとはまったく異質のものである。
 ファーンにとってはこの方が馴染み深かった。元々は父と同じ軍人を目指していたのだ。
 実は室内より屋外の方が性に合っている。
 久々の開放感に、ファーンは腕を伸ばして大きく深呼吸をした。
 昼下がりの休憩に入ったばかりの街は、全体がのんびりと寛いだ空気に包まれている。車の姿もほとんどなく、人影もまばらで、曇り空の下の通りはがらんと空いていた。
 だが、寂れた印象はない。
 雰囲気は雑多で庶民的なものに塗り変わったが、核にあるものは変わらなかった。道の隅や横道にも汚れや暗さといったものはなく、一瞥しただけで治安のよさが見て取れる。
 小走りに道を駆け追い抜いていった子どもが、リンディに朗らかな挨拶を送った。小さく手を振って、リンディが応える。大きく手を振り返してから、幼い少年は脇道へと消えた。
 肩の力を抜いた瞬間に、「近く」「歩いていく」といったような言葉を執事が言っていたことを今さらながらに思い出す。
「街を歩くのは慣れているのか?」
「はい。いつもは、アベルと一緒に」
「無用心だな」
 思わず呟くと、リンディは驚いたように振り向く。勢いのままに視線が絡んでしまう。彼女はいつものように動揺でほんのりと赤くなり、目を伏せた。
 そして、
「今もですか」
 ――そう言って、笑った。
 重なる雲の合間から滲んで広がる、眩くやわらかい光のような。いつか庭で見かけたような、屈託のない笑み。
 思い出の中にあるだれかにではなく、目の前にいる自分に対する笑顔だ。
 思わず息を呑む。じわり、と熱いような感覚が奥に滲んだ。
 石模様を目で追いながら、何一つ気づいていないであろう彼女は説明を加える。
「危険というより、街の人に囲まれてしまうことならよくあります。アベルが街に行くと皆が喜びますから」
「……そうか」
 ぎこちなく息を吐き出す。会話に集中できなくて、相槌を打つのがやっとだった。
 彼女との間に少し距離があってよかったかもしれない、とファーンは思う。彼女の視線が下を向いていたことにも、今だけは感謝したい気になった。
 この程度で動揺するなど、まったくどうかしている。
 と、ふいにリンディが前方の交差点を指した。
「そこが市場になってます」
 付近には人の気配が感じられる。ゆっくりと呼吸を繰り返してなんとか平静を取り戻し、ファーンは慎重に観察する。
 垂直に交差する道には、脇に出店などが並んでいた。軒並み休息時間に入っている大通りよりは人影がある。
 彼女から注意を外さずにそれらを横目で捉えつつ、人の流れが途切れる間を計って渡った。
「二人を見かけないな」
 市場に視線を送ってから、リンディは返事をする。
「神殿に行くと言ってありますから、たぶん広場にいると思います」
「使用人の心をよく掴んでいる」
 何気なく褒めると、わずかな沈黙の後に、使用人の子でしたから、と、控えめな声が返ってきた。
 詰まった声を押し出そうとした時。
「あれっ、緑の館のお嬢ちゃん。こんにちは、今日はどうしたの?」
 すれ違った若い男がリンディを認め、声をかける。彼女は親しげな表情を浮かべ、律儀に答えた。
「こんにちは、ハンセルさん。お使いです。代理の方に街をご案内しているの」
「おや、なんと!」
 男が目を丸くして、慌てたような大げさな動作で頭を下げた。それから、ようこそサウラへ、と物怖じせずに陽気な声で歓迎の言葉を述べる。
「ファーンだ。しばらくの間、よろしく」
 笑顔で握手を求めると、男は丸い目をさらに丸くしてから笑みを全開にして、がしっとやや性急に手を取った。大きく上下に振る。
 ちぎれんばかりに尻尾を振る人懐こい大型犬のようだ。浮かべた笑みに苦笑を忍ばせて、人の注目をひく前にファーンは男と別れた。
 とはいえ注目をひくまいという願望にはやはり無理があり、似たり寄ったりの調子で次々と住民たちに捕まる。彼らは先の男と同じくひとしきり驚いてみせた後、満面の笑顔で口々に歓迎を述べるのだった。
 つくづく気さくで人好きな民である。
 街の者が最初に声をかけるのはリンディであったが、すぐに「緑の館のお嬢ちゃん」が連れている男の素性を知りたくてうずうずしているからなのだということがわかってくる。
 最初から王都から派遣された代理だと見当をつけて、紹介を彼女に求めているのだ。
 謎が多く不明瞭な存在であっても、彼女は実質「館の者」だった。神経が細く頼りなさそうに見え、また本人も不安そうな顔を見せるのだが、必要な部分はしっかりしている。
 できるかと、わざわざ念を押す理由などないではないか。
 地下水をくみ上げた噴水の横を通り過ぎる。細い脇道から横風が吹き抜け、埃を舞い上がらせた。
「あいつは細かすぎる……」
 口に出すつもりはなかったのに声が耳から聞こえ、ファーンははっと口を引き結んだ。だが、遅すぎる。隣にある細い肩が震えたのがわかった。
 ……失敗した。外出に浮かれていた女官らを笑うどころではない。
 迷うように目を彷徨わせていたリンディが、ふいに両手を握り合わせる。躊躇いがちに口を開いた。
「あの、リオンとは、どうして?」
 ファーンは辛うじて溜息を押し留める。
 助けを求めるようにしてリオヴェルトに向けた、困り果てたような彼女の顔を思い出す。罪悪感にかられ、すぐに後悔した。人に気を遣わせる方が悪い、とはリオヴェルトの言葉だったが、まさしく彼女の前で感情を抑えきれなかった自分が情けない。
 つくづく外交官の名が聞いて呆れる。
「心配させて悪かった、つまらない喧嘩だ。珍しくないぞ。リオンと初めて顔を合わせたのは戴冠式の日だったが」
 取るに足らないことだと強調したい心が勝って、余計なことまで口走った。目の端で隣を伺ったが、幸い不審には思われなかったようだ。軽く安堵する。
「出会った時から喧嘩をしたくらいだからな」
 彼の秘密主義は今に始まったことではないが、今回特別に頑なであるのは間違いなくこの少女が絡んでいるからに違いなかった。
 戴冠前のリオヴェルト・ルイス・アル・ローヴァンのことを、ファーンは詳しくは知らない。そもそも出会うまでは、両親を始めとする《無名の騎士団》の面々から彼の話を聞かされることが苦痛で避けていたのだから。
 親しくなってからも、過去の話題を口にしたことはなかった。それがある種禁忌の扱いをされていたからというよりは、自身のこだわりの欠片がどこかに残っているせいだったような気もする。
『――ユンゲルグ王国にイシュムルを派遣し、桜月十九日、ロヴァニア王国に《詩》を迎える。』
 塔にある手記も、十年前の記述はごく簡潔だった。
 イシュムルの件をなぜ《詩》に隠す必要があるのかと問うた時、彼は表情も変えずに情報が曖昧だからだと答えた。見えすいた嘘をつくなと言ってやると、至って真面目な口調で嘘は言っていないという返答を寄越した。
 詭弁だ。触れられたくない話題らしいという印象だけが強く残った。余計に腹が立つ。
 それに、仕事にも差し障る。
(妙なところで中途半端なんだよ)
 八つ当たり的な感情に連動して、腹の底で虫のようにうるさく騒ぐものが定期的に復活する。
 性質が悪い。理不尽だからこそ制御するのが難しい。
「ごめんなさい。立ち入ったことをお訊きしました」
 沈黙をどう受け止めたのか、リンディが呟くように言う。ファーンは間髪入れずに否定した。
 たまたまその内容に後ろめたいものがあっただけで、彼女からの質問は歓迎だ。
「いや、構わない。聞きたいことがあったら聞いてくれ。というより、君はもう少し図々しくなるくらいが丁度いいんじゃないか。遠慮しすぎるのも考えものだぞ」
 彼女の歩調が緩まる。また無神経なことを言ってしまったかと、ひやりとして振り返った。
 リンディは驚いたような顔でこっちを見ていた。軽く瞠られた深い翠の瞳に留まりその底にあるものを探りたくなるような衝動を抑え、そのまま視線を流す。
 少なくとも傷ついているような表情ではなかった。ファーンは内心ほっとする。それから、さっきも似たようなことがあったなと思い出して首を捻った。
 おかしなことを口走っただろうか。
「どうした?」
 尋ねるとリンディは慌てたように首を振り、開いた距離を埋めるべく小走りに駆け寄ってくる。どこか一途を思わせるその様子に知らず微笑を誘われながら、ファーンは彼女を待った。





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