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 しん、と静まり返った端正な雰囲気。右の塔に似た空気が揺蕩う。
 その空気が塔よりも濃いような気がするのは、日々手入れをされている塔とは違って放置される間隔が長いからだろうか。
 埃の臭いに混ざって漂う、しっとりとした落ち着いた香り。当主の趣味で、灯には銀沈木の香油が落とされている。
 仕事に関係した部屋のうち執務室だけ無香なのが不思議で、以前保護者に訊ねたことがある。強いて言うなら気分です、と言っていた。夜はあまり執務室を使用しないからかもしれない。
 幅広く背の高い棚の間を通り抜けると、ほわりとした淡いランプの灯火が見えた。
 天気とは無関係に、書庫は常に薄暗い。広い部屋に規則的に並んだ棚とびっしりと詰められた本が圧迫感を感じさせるが、奥に設けられた閲覧場所は広めに取ってある。
 壁に寄せられた机は、執務室にある大机と同じものだった。いつの間に用意したのか、やはり大きな箱が三つ置かれており、山のように書類が積まれている。
 一息入れているところなのか、書類を広げたまま彼は頬杖をついて窓の外を眺めていた。暖光に包まれながら、その表情は陰に隠されて見えない。
 気配に気づいたのだろう、傍に行き着く前に彼は振り向く。二人の姿を認めると、やわらかい微笑を浮かべた。
 その仕草があまりにアベリュストに似ていたので、リンディは瞬きをした。
「なに?」
「ううん、なんでもないの」
 曖昧に首を振る。きっと、部屋を満たす香のせいだろう。
 リオヴェルトは、そう、と呟いてファーンに視線を移した。
「午後から街長の家と神殿まで挨拶に行ってほしい。今年の翠月祭は館の表庭を開放することができないから、神殿が協力してくれることになっているんだ」
「つくづく本の多い館だな」
 まるで関係ないことを独りごちてから、ファーンは憮然とした硬い表情を保ったままリオヴェルトを見返した。
「わかった」
 冷たささえ感じさせる素気ない態度で応じる。先ほどまで見せていた晴れた空のような明るい笑顔は既になく、重苦しい曇天のような表情に戻っていた。
 はらはらして、リオヴェルトの顔を見てしまう。彼は困った顔をつくってみせたが、わざとらしさを隠そうともしなかった。
「いつまでも根に持っていないで、機嫌を直してほしいな」
「馬鹿にするな。手抜きもするな」
 ファーンは険悪な表情で睨み返す。相当機嫌を損ねているらしい。
 先ほどは、すっかり許しているような気配だったのに。
「馬鹿にしているつもりはないけど、手抜きはごめん」
 穏やかでいながら、リオヴェルトも引く気はないように見える。ファーンに負けないくらい素気ない口調だった。
 なにかあったのだろうか。右の塔から引っ張り出された、とか、呼びに行かされた、とか、それだけではないような気がしてくる。
 慣れない状況にどうしていいのかわからなくて、リンディは再びリオヴェルトの顔を見た。
「大丈夫だよ。おいで」
 手招きをされる。傍に寄ると、光に迎えられた。
 手を伸ばしてリンディの両腕を取ると、彼は安心させるかのように撫でるようにして叩く。
「きみが心配することはないよ」
 やさしさを取り戻した口調でリオヴェルトは言った。机の隅に置かれたランプの淡い光が彼の横顔を照らしている。
 腕に置かれた手は暖かい。無条件に信じてしまいそうになって、リンディは困ったような気持ちになる。
「卑怯な奴」
 むっつりと呟いて、ファーンが溜息をついた。
「人に気を遣わせる方が悪いね。だけど、それもごめん、だ」
 微かに笑って、リオヴェルトはファーンを流し見る。すぐに視線を戻して、やや真面目な顔をつくった。
「リンディ、きみが案内するんだよ」
 ファーンに用件を言いつけていた時点で理解したので、リンディは小さく頷いてみせる。
 リオヴェルトとファーンが同時に眉を上げた。
「驚かないね」
「うん、マルトが午後と馬車と街って言ってたから」
「ああ」
 見ていたかのように、リオヴェルトは笑った。
「打ち合わせはほぼ済ませてあるし、ファーンも資料には目を通している。だけど、細かいことまではわからないだろう。挨拶のみの予定だけど、なにかあったら助けてやりなさい。できるね?」
 だれかを助ける、ということにリンディは慣れていない。いつも頼る側だからだ。
 うまくできるかと改めて問われると、自信がなくてつい迷ってしまう。
 躊躇いを見透かしているのだろう、リオヴェルトは諭すような声音で言葉を続けた。
「大丈夫。難しいことを考えなくても、きみはちゃんとできるから」
 はっと胸を突かれて、リンディは彼の顔を見返した。受け止める水色は、穏やかでやさしい。
 少し泣きたい気分がする。馬鹿だ、とは思う。
 けれど、別のことまで言われているような気がして、喉が詰まった。
 ――人のせいではない。自分が頼りないから、ゆらゆらと勝手に揺らいでいるだけだ。
 掴んだ両腕をもう一度、ぽん、と軽く叩いてから、水面に漣さえ立てないだろうと思わせるような静かな声でリオヴェルトは言う。
「できるね」
「……はい」
 ようやく頷くと、彼は手を離してファーンに顔を向けた。
「頼んだよ」
「わかってるよ」
 吐息混じりで、ファーンは返事を返す。今度は、憎まれ口を叩くようなことはなかった。

 舗装された石畳の道を、がらがらと音を響かせて馬車が走っていく。
 厚い雲に覆われた空の下、緑と平野が続くのどかな景色が流れていった。遠くには、集落らしき影が見える。
 外の景色を眺めながら、リンディはぼんやりと物思いに耽っていた。
 数日前、この流れを遡って二人が緑の館にやってきた。そしてその後に、同じ流れを辿ってアベリュストが王都へと向かった。
 つい先刻も、マルトを乗せた馬車が走っていったはずだ。
 本当に、短期間でいろんなことが起きている。リンディは、周囲に気づかれないように小さく吐息をついた。
 ともあれ、アベリュストへの手紙が間に合ってよかったと思う。料理長特製の弁当を待つというなんとも緑の館らしい呑気な理由で、マルトの出発が少々遅れたおかげだった。
「ね、エリス。普通の日の外出って、なんだかわくわくしません?」
 ミティアが隣に座るエリスをつついて言う。声を潜めて憚っているつもりかもしれないが、狭い車内では丸聞こえである。
「女官長が、遊びに行くのではありませんよ、ですって」
「まぁ。先月休暇をいただいたばかりですもの、私たち満足してますよね」
「ですよねー」
 明るい笑い声に引き戻されて、リンディは車内へと視線を戻す。突然の外出に高揚を抑えきれないのか、二人はそわそわと落ち着きなく体を動かしていた。
 執事は外出、女官長は館に残る。付き添いにと言われたフェミナは年少の二人に役目を譲った。
 二人の舞い上がりぶりを察した女官長が釘を刺したくなるのも、わかるような気がする。
 おかしくて、笑ってしまった。
「女官長も人が悪いわ。少しくらい息抜きしても、きっとわからないのにね」
 いやですわ、息抜きじゃなくてお仕事ですってばぁ、と抗議の声が同時に上がった。
 反対側の窓から外を覗いていたファーンが振り向き、女官たちを見て苦笑を浮かべる。さすがに赤くなって、二人は口を閉じた。
 ぷっと吹き出され、もじもじと居心地悪そうに俯く。
 微笑ましくはあるけれど、あながち他人事というわけでもない。
 狭い空間で体を寄せ合うようにしているため、実はリンディも落ち着いた気はしていなかった。
 なんとなく視線のやり場に困ってしまって再び外に目を向けると、窓の向こうはいつしか街中の風景になっていた。
 サウラ唯一の街・南ロード街は複雑な構造をしていない。道は真っ直ぐに伸び、店や民家の尖った屋根は、高低はあるものの整然と立ち並んでいる。
 大通りを通り抜け、馬車は上流階級の気配を滲ませる区画へと入っていった。

 がたん、と一際大きな振動を伝えて馬車が止まった。つきましたよ、という声と同時に扉が開く。
 少し強い風に髪を流された。
「ありがとう。馬車を置いたら、話が終わるまで中で休ませてもらっててね」
 馬丁のクルトにお礼を言いつつ馬車を降りると、出迎えた壮齢の男性が慇懃に頭を下げた。その向こう、屋敷の扉前には白髪の老人が立っているのが見える。
 街長だ。
 会釈をしてから、リンディはミティアとエリスに顔を寄せて小声で囁いた。
「お家の人には話しておくわ。いいって言われたら街に出て。でも、ちゃんと時間を計って神殿に来てね」
「えっ、でも……」
 二人同時に上げた声は、幾分裏返っていた。戸惑いではなく、明らかに期待の表情をしている。
「先月休暇をもらったばかりで満足しているんだったな」
 あまりにも正直すぎる反応が楽しかったのか、傍で話を聞いていたファーンが軽い調子で言う。からかわれて、二人が言葉に詰まった。
 ちらりと横目で伺うと、彼はいたずら好きの少年みたいな顔をしてにやにやと笑っている。
 ……意外と、意地悪が好きな人なのかもしれない。
 縋るような眼差しで、女官たちが見つめてくる。もしかして、リオヴェルトと気が合うのはこういうところなのではないだろうか、と考えながら、リンディは安心させるために二人に笑いかけた。
「今日は馬車でクルトもいてくれるから、ずっとついててくれなくてもいいと思うの」
 すかさず、休暇をもらったばかりで満足してますのでもちろん私は平気です、とクルトがぼそりと呟いた。
 翠月に入る前、暗黒月の最終週から桜月にかけて、緑の館の使用人たちは交代で長めの休暇を取る習慣になっているのだ。旅行に行く者がいれば縁の地へと戻る者がいる。休暇月間が終わる頃には各地から持ち込まれたお土産が厨房に山積みになるのが、隠れた風物詩のようになっていた。
 情けない顔になったミティアとエリスを見下ろし、クルトは冗談ですよ、と言って笑う。突っ込む隙を見逃さないのが彼なのだ。
 重ねてからかわれて、女官たちの目が潤んでくる。リンディは慌てて口を開いた。
「大丈夫、いいのよ。もし女官長の耳に入ったら、わたしが許可したって言えばいいの。ね?」
 言い切ると、女官たちが破顔した。
「ようこそおいでなさった」
 馬車から降りて近づいた一行に、老人が人懐こい笑顔で会釈をする。笑顔になると、垂れた細い目がさらに垂れて細くなる。皺に埋もれてなくなってしまいそうだ。
 リンディは、ふくよかな体型をしたこの街長が好きだった。けれど、緊張を抱えている今日は、どこかぎこちなさを自分の中に感じる。
「こんにちは、ベルクさん。いつも街を守ってくださってありがとうございます。あなたのおかげで安心してサウラを離れられると、アベルが言っていました。挨拶を述べる暇もなくて申し訳ないと、伝えてほしいと。……今日は突然に無理を言ってごめんなさい」
「とんでもない。こちらがお世話になっている身じゃよ」
 微かに割れた声で、気さくに街長は答えた。孫のような年齢の者たちを見つめる彼の目は、やさしさを湛えている。
 つられるようにして、笑みが浮かんでくる。気負っていた心が溶け、リンディはごく自然にファーンを紹介することができた。
「こちらが、代理をしてくださるファーン・エル・グリークさまです」
「はじめまして。街長を勤めさせていただいているベルクと申します。本来こちらからご挨拶に伺うべきところをご無礼致しました。大変申し訳ございません」
 落ち着いた、というよりは、大らかな、といった方が相応しいような声だが幾分引き締まった口調で街長が挨拶をする。が、なにかに気を取られていたのか、ファーンの反応が遅れた。
 複数の視線を浴びて、はっと我に返ったように群青の目を瞬かせる。すぐに、照れたような笑顔を見せた。
「失礼。ファーン・エル・グリークです。いや、こちらこそお気遣いに感謝します」
「恐れ入ります。立ち話も何ですな、どうぞお入りください。狭い宅ではございますが、おくつろぎいただけると幸いです」
糸のような目をしておかしそうに喉の奥を鳴らして笑いながら、街長は一同を屋敷へと誘った。





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