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 森を出て自室に戻り、ふと息をついた瞬間に浅い疲労を感じた。少し肌寒い。リンディは深い薔薇色をしたソファに身をもたせる。
 まだ昼には時間がある頃だというのに、全体がほのかに暗かった。灰色を薄く引き延ばしたような空気のいろ。湿ったにおいがする。
 飴色の小机に置かれた花瓶には、一輪の青星花が活けられていた。すらりと背を伸ばして花を結ぶ、凛々しい花。先日庭で摘んできたものだ。
 たまたま目に入った青星花を、リンディはぼんやりと眺める。
 たとえ上辺だけの脆いものだったとしても、長らく平穏な日々を送っていた。翠月に入ってからの急激な変化に、時々目が回りそうになる。
 溜息をついて、はっと我に返った。……しっかりしなければ。
 古い悲しみに引きずられる賢者の樹が少しでも安らげるように、均衡が乱れることのないように役割を果たしたい。自分の存在が誰かの力になるというのなら。
(だけど、彼を守りたいだなんて)
 思い出すだけで、顔が火照る。雰囲気に流されて、大層なことを口走ってしまったことがとても恥ずかしい。
 恥ずかしさのあまり居ても立ってもいられなくなるので、以来あの一件についてはできるだけ記憶の底に沈めようとしていた。それなのに、事あるごとに浮上してしまう。
 あの時、二人はどんな顔をしていただろう。動揺を抑えるのに必死で、確かめる余裕がなかった。
 もしかしたら呆れられてしまったのではないだろうか。その後なにかが変わったというわけではないのだが、考え始めると止まらなくなる。
 リンディは頬に指を当てて熱を冷まそうと試みながら窓辺に歩み寄り、窓を開けて風を呼び込んだ。流れる髪を風に委ねたまま、膨らんだ薄布のカーテンをまとめてソファと同じ布で作られた厚地のカーテンの脇に留める。
 重くくすんだ空の下で厳かな様相を見せる、沈深たる緑の森。土の匂いが今日は近い。湿った感触をもたらす風は熱を持つ頬に冷たかった。
 曇りの日は心細くなる。
 簡単に途切れてしまう糸だから。
 守りたい、だなんて誰にも言ったことがなかったのに、どうしてあんな時に口を滑らせてしまったのか自分でもわからない。
 ――異国人だと言われた時。
 ざわり、と目の端で家具の合間にある陰が蠢いたような気がして、リンディは窓枠を握り締めた。息を詰めて陰を注視する。
 変化は起こらない。
 肩の力を抜いて、再び外へと目を向けた。
 ――認めてもらいたい、と思ってしまったのだろうか。
(だれに?)
 その時、扉を叩く音が部屋に響く。
 リンディは危うく声を上げそうになった。そして、次に届けられた声に文字通り飛び上がる。
 驚愕のあまりしばらく硬直していたが、返事をしていないことに思い至り急いで扉に駆け寄った。
 取っ手を掴んだ後に一瞬躊躇し、深呼吸をしてから開ける。
「やあ」
 部屋の前には、どことなく不機嫌そうな顔をしたファーンが立っていた。

 今日の天気みたいだと思った時にはもう群青の瞳に捕まっている。
 深呼吸も虚しく収まりかけていた記憶が蘇り、動揺と相まって収集がつかなくなった。リンディは赤らんだ顔をおどおどと伏せる。
 既に慣れた様子で、ファーンはあっさりと流した。
「驚かせて悪い」
「ごめんなさい」
 とっさに頭を振る。気を悪くされなかったことを安堵すると同時に、申し訳ない気持ちになる。
 ……身勝手だ。すっと気持ちが冷え、昇った血も引いていった。
「なぜきみが謝るんだ?」
 ファーンは怪訝そうに眉根を寄せる。が、答えは望んでいなかったらしく、無造作に言葉を継いだ。
「俺にきみを迎えにいけと言ったのはリオンだ。自分で来いと言ってやれ」
 言えない、と反射的に言いそうになってリンディは唇を噛み締める。些細な冗談にまで過剰反応してしまう。
 再び首を横に振ると、叱責に近い口調で一蹴された。
「ずれてるぞ。女官長に俺を右の塔から引きずり出させている間に、奴がきみを呼びにきた方が早いに決まっている。ここは怒ってもいいところだ」
 冗談ではなく、どうも本気で憤慨しているようだと、リンディは今さらながらに気づいた。
 朝食を済ませた後、彼は右の塔へと向かうようになった。代理不在の執務室にはいられないということで、リオヴェルトは執務室から書庫に移動している。
 昼頃になるとファーンは塔を出て、午後には緑の館の住人と歓談したり敷地内を散策しているようだった。
 珍しい料理が出てくるようになったと思ったら、料理長がファーンに教わったのだと嬉しそうに話していた。休憩中の女官たちが珍しい遊びをしていると思ったら、やはり彼に教わったのだという。広い世界に住んでいる人なのだ。
 それなのに、まるで旧来の住人のように彼は違和感なくサウラの風景に溶け込んでいた。
 振り返ってみれば、彼は最初から緑の館によく馴染んでいた、と思う。時折行方をくらますことがあるようで、使用人たちに尋ねられることさえあった。
「変なところで傲慢だぞ、あいつ」
 ファーンの不機嫌の理由はわかったが自分が怒る理由が思い浮かばず、リンディは返事に迷う。俯いたまま言葉を捜していると、一段と低まった声が耳をかすめた。
「――あいつの中途半端さが不安を呼ぶんだろう」
 驚いて顔を上げる。戸口に彼の姿はなく、焦って部屋を出た。
 もしかしたら、空耳だったのかもしれない。わからないほどに、かすかなものだった。
 廊下を引き返すファーンを思わず呼び止める。
「あの、ファーンさま。今の……」
 が、絶句してしまう。なにを聞けばいいのだろう。どうやって。
 数歩進めた足を止め、わずかに肩を落としてファーンが振り向いた。何ごとかを言いかけて、彼もまた言葉を失ったかのように口を閉じる。
 複雑さを孕んだ真剣な表情に圧され、リンディは一歩も動けなくなる。
 廊下はいっそう薄暗かった。
 可能な限り光を取り込む仕組みであっても、元の光が弱ければ奥まで届かせるのは難しい。廊下の青灰色と青緑の石は暗色に沈み、所々埋め込まれている薄い黄色の石が目立っていた。明るい時は、薄い黄色が差し色となって配色をより鮮やかに引き立たせるようになるのだ。
 気まずい沈黙がしばらく続く。
 先日の大言といい、また気に障るようなことをしてしまったのだろうかと不安が膨らんだ時、ファーンが表情を緩めた。
「『さま』はおかしいな」
 苦笑めいた笑みを口元に刻む。途端に空気が和んだ。
 斬りつけられるような緊張から解放されてほっとしたものの、リンディには困惑が残る。唐突すぎるし、なにがおかしいのか理解できなかった。
 尚も思い悩んでいると、ファーンは目を周囲に走らせつつ、やや早口で説明を加えた。
「ディアス侯爵は保護者だから例外とするが、リオンが呼び捨てで臣下の俺に『さま』がついているのは明らかにおかしいだろう」
 苦笑が含み笑いに変わったような気がする。が、細かい観察ができるはずもなく、リンディは言われたことに集中することにした。
 ……そうすると、自分は他のロヴァニアの人々の呼び方にも困るような気がする。けれど、確かにそうかもしれない、と思ってしまった。
 考えた末に、躊躇いながら呼び直してみる。
「えっと、……ファーン、さん?」
「それはもっと勘弁だ」
 即座に却下された。心の底から嫌そうな顔をしている。
 不快な思いをさせてしまったことを後悔して、リンディは細い声で謝った。
「ああ、いや、悪い。謝られるようなことではないんだが」
 困ったような顔で、彼は謝罪を返す。
「頑固眼鏡の上司が、俺に説教しようとする時の出だしの言葉がこれ。――ファーンさん、少し時間をいただくがよろしいか」
 皮肉たっぷりの声音が、宰相の真似をしたものだということはすぐにわかった。
 アベリュストを除き、《無名の騎士団》の中でリンディがまともに顔をあわせたことがあるのは宰相だけである。リオヴェルトを追いかけて、彼は何度も緑の館に姿を現していた。
 少年時代のリオヴェルトがどのようにして単独で緑の館を訪れていたのか、子どもの頃は考えたこともなかった。恐らく勝手に抜け出していたのだろうと思う。
 単純に、見慣れないような大人びた雰囲気でいながら時々混ぜ返しては楽しそうに笑うリオヴェルトと、苦虫を潰したような宰相の様子がおかしかった。時にリオヴェルトの背後から、時に離れた場所から笑いを堪えて見ていた記憶が残っている。
 やがてアベリュストが会話に加わり、宰相が眼鏡を押さえつつ何事かを言い募る。最後には口を曲げて黙り込み、呆れたように大きく肩で息をつく、というのが常だった。
 細かいことまでよく覚えているのは、宰相が姿を現した翌日には必ずリオヴェルトがブランシュ・アルトに戻ることになるからだ。
 抑えた寂しさが軽い余韻を引く、懐かしい思い出だった。悪いと思いつつも、宰相の話になるとつい笑みがこぼれてしまう。
 気持ちがほぐれた時分を見計らったように、ファーンがさらりと答えを決めつけた。
「というわけで、敬称なしで頼む」
「えっ、でも、そんなこと」
 できない、と言おうとしたが素早く先を遮られる。
「実際、きみだけでなくここの住人全員に『さま』をやめてもらいたい。主ではないから敬われる理由もないだろう。が、表面上は代理なので黙っている」
「……やっぱりできません」
 胸の前で両手を握り締める。今度は納得しかねて、遮られた言葉を押し出し抵抗を試みた。
 そういうことであれば、自分も代理である彼に敬称をつけてもおかしくはないと思うのだ。
 第一、迂闊にはいと言ってしまったら、次から彼の名を口にするときには呼び捨てなければいけなくなる。リンディなりに必死だった。
 ファーンがわずかに眉を上げる。片手で髪をかきあげた。
 それから、意地の悪そうな笑顔を閃かせる。
「では、俺がきみのことを、リンディさま、と呼んでもいいか?」
 ぎょっとする。大きく首を横に振ると、彼は勝ち誇ったように頷いた。
「ほらみろ、嫌だろう? 同じことだと気がついてくれ。そもそもきみと俺は同等のはずだ。もっと自信を持てよ」
 目を瞠ったままでなにも言えずにいるリンディをしばし見下ろし、話は終わったとばかりに彼は踵を返す。少し進んだ位置で足を止めて、顔だけ振り向かせた。
「どうした? 辛気臭い書庫でリオンが待ってるぞ」
 ふいを突かれて立ちすくんでいると、首を傾げつつ体の向きを変えて戻ってこようとする。慌ててリンディは彼の方へと足を踏み出した。

 廊下を抜けて階段までたどり着くと、採光の加減でやや明るさが増す。階段側の壁に填め込まれた淡色の硝子は光が差す時こそ美しく映えるものではあるが、光が不足した時にも十分な機能を果たしていた。
 階段を下りると、外出用の服装に身を包んだ執事のマルトに出くわした。左方より姿を現したということは、自分の仕事部屋から出てきたのだろう。
 執事には、執務室の向かいにある第一書斎と称した仕事部屋が与えられている。元々は執務室とは別に当主用に用意されていたものだったのを、いつからか執事の部屋として使われるようになったのだとマルトが教えてくれた。
 挨拶をするためにファーンの近くまで歩み寄ってきたマルトは、彼の背後にいたリンディに気づいて柔和な微笑を浮かべた。
「出かけるの?」
「ええ。急ではございますが、王都までお使いに」
「王都?」
 なにかあったのだろうか。眉をひそめたリンディに、彼は安心させるようにゆっくりと説明する。
「アベリュストさまがお呼びだと伺いました。ご用件の内容はリオンさまもご存じないということですから、大事ではないと思います。私が不在でも女官長がおりますので大丈夫ですよ」
 げ、と奇妙な呻き声をファーンが上げた。
「ということは、その不在の間は女官長が書類を運んでくるのか?」
「はい。彼女は秘書官の資格も持っておりますから、ご心配には及びません」
 いや別の心配が、と口の中でぼやき、彼は憂鬱そうに嘆息する。綺麗に放置して、マルトは朗らかに続けた。
「私は別に頼んだ馬車で参りますので、午後のお出かけは館の馬車を用意させてございますよ」
「……お出かけ? 馬車?」
 リンディは子どものように言葉を繰り返した。と、マルトの目がきらりと輝く。
 浮かべていた微笑を意味ありげなものにすり替えて、大げさに頷いてみせた。
「街は近いから歩いていくなどというご無理は、今回は聞きません。天候のよろしくない日には心配事が増えます」
「ま、街?」
 彼には相手を悩ませて楽しむというなんとも趣味の悪いところがある、と思う。
 大抵は笑って済ませられる無邪気なもので害はない。また彼自身のとぼけた人柄のおかげで悪い印象を与えることも決してないが、謎かけめいたことを小出しにされるのは落ち着かなく心臓にも悪い。
 思わせぶりに話を振るだけ振って、マルトはファーンに向き直った。
「輝く緑の蔭で、翠月の空気は悲しみを吸って重くなります。爽やかにみえる風も簡単に闇に翻ってしまうもの。神のご加護を祈るばかりです」
 笑顔の奥にある瞳が、一瞬ファーンを凝視した。ファーンは無表情に視線を返す。独特の鋭利な雰囲気をあらわした、群青の眼差しで。
「神とは内に在りて尚遠きものだな」
「左様でございますね」
 穏やかに受け止め、彼は同意を示す。一礼して、その場を去った。
 リンディは呆気にとられて、隙のない姿勢で歩く執事の背中を見送る。
「また一つ思い出したぞ」
 表情を消して執事の後ろ姿を追っていたファーンが、ふと小さく笑った。
「日頃の運動不足が解消されて嬉しいと、あの得体の知れない執事に笑顔で皮肉を言われるのもあいつのせいだな」
 ファーンが右の塔にこもることになれば、マルトは目も通されない書類を持って第一書斎と右の塔を往復することになる。第一書斎に戻ってから書庫に書類を運ぶ、という何とも面倒な手順を踏まなければファーンの代理という意味は失せ、リオヴェルトの位置も微妙になりかねないのだ。
 書庫と第一書斎は、中の扉を通じて繋がっていた。
 仕方がない、とでもいったように彼は肩を揺らして苦笑している。その横顔を数歩ほど下がったところから眺めつつ、リンディはとりとめもなく思った。
 遥かな高みに広がる青空もたちこめる雲を割って早く姿を見せてくれたらいいのに、と。





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