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 数百年前、北方で国が分裂し激しい争いが起こった。繰り返される興亡と内乱。長期に渡る紛争の中で無数の国々が時代の濁流に溺れて消えていった。
 ウェル=ガレムとは、辛うじて歴史書の片隅に残されているような短命に終わった小国の名である。国を追われた民は名前を捨て、再び土地を持つこともなく世界の裏に身を潜ませた。
 謂わば対極の位置にいるロヴァニアとイシュムルが接触したのは、およそ百五十年前のことになる。
 ロヴァニア全土を震撼させた王宮炎上事件。《無名の騎士団》内でも未だに意見が分かれるところではあるが、波紋を遮断するために事の発端とされるイシュムルとの接触を図った当時の王の判断を、宰相は英断だと思っている。
 以降長らく不可侵の均衡が保たれてきた関係により深く踏み込むことを、リオヴェルトが是認したことも。
 青みを帯びた灰色の鷹は、当たり前のようにアベリュストの肩でゆったりと羽を休ませている。分厚い服を着ているわけではない。鋭い爪が食い込み、服に深い跡をつけていた。
 多少なりとも痛みはあるはずなのだが、彼は涼しい表情のまま労うように背を撫でる。ウェル=ガレムは心地よさそうに濃橙の目を閉じた。
「随分と慣れているようですな」
 皮肉を込めて、鷹からアベリュストに視線を移動させる。
「そうでもないと思いますが、傷はつけまいと彼なりに努力をしてくれているみたいですね」
 軽く流しつつ鷹の片足を探り、彼は取り出した紙を広げた。よく見ると、鷹には足輪がついていた。
 ごく自然にイシュムルの使いを迎えた様子を見ても、連絡を要請したのはアベリュストの方なのだろう。そのこと自体はさして驚くようなことでもない。
 イシュムルとの交渉をアベリュストが任されるのは、今回が初めてではないからである。
 十年前、《詩》を手に入れる策を巡って会議は停滞していた。《詩》の居場所はあまりに遠く、また幾つもの事情が重なり、正攻法どころか裏工作を施す余地もなかった。
 彼の国が王太后の出生国であったことが、より厳しい制限となる。《詩》の存在もロヴァニアの動きもユンゲルグ王国に知られるわけにはいかなかった。
 膠着しかけた状況下で、イシュムルを使うことを提案したのは代替わりしたディアスの当主である。先代であった彼の祖父が逝去したばかりの頃だ。
 議論より沈黙の占める割合が多くなり始めた時期になって、彼は、他に案がないのなら任せていただけませんか、と気負った様子もなく口を開いた。
 思いの馳せるままに、宰相は机の縁の直線を指でなぞる。焦茶の家具で統一された小さな館。緑の館に似せて造られながらも外を囲む森ほどにうまくいかなかったのは、内を満たす空気に温もりが欠けているせいなのか。
 体に合わない椅子に腰掛けた線の細そうな少年の姿が脳裏に浮かぶ。あの時の会議も、ここ小トテイアで行われていた。
 ――人間になる前の少年。
 宰相は嘆息した。前に座るグリーク伯爵が、解いた腕を机に置いて顔を寄せる。
「どうした?」
「いや」
 言いかけて思い直し、この館はどうも古いことを思い出させる、と小声で伝える。グリーク伯爵は肩をすくめた。
「昔話か。小トテイアではいい思い出は少なかろうな」
 けしかけておきながらとぼけたことを言う。
 宰相は疲労困憊に近い状態でソファに沈めていた身を起こした。鋭い群青の目を間近から睨みつけ、殺した声を押し出す。
「諍い見物は楽しかったか」
「ディアス侯爵の腹の底を知りたかったのだろう? いい加減に隔意は払っておけ」
 薄く笑って、グリーク伯爵は黙然と紙に目を落としているアベリュストを見た。
 木々の間より差し込む光を浴びて、青い双眸がやや眩しげに細められている。その肩で大人しげに待つ鷹が時々首を動かす様は、次の指示を催促しているようでもあった。
「ああ見えて素直な男だ、普通に接すれば普通に引き出せる」
「余計なお世話だ」
「そう怒るな。騙されたいと思う心がある、というのは痛かったな。真実だ」
「それでも、殺したという表現は不謹慎にすぎる。許されるべき言葉ではない」
 言下に切り返すと、彼は慣れた様子で再び肩をすくめてみせた。
 勘違いされては困る。受け入れたのは、言わんとする内容だけなのだ。いや、反発を諦めただけで、彼の言を受け入れたのか自分でもはっきりとはわかっていない。
 だが……確かにあの頃の彼は、リオヴェルト・ルイス・アル・ローヴァンという名と姿を持つために存在していた者だった。
 再び息を吐き出す。己の弱い部分を認めるというのは歳を重ねるほどに難しく、また苦味を増すように感じる。
 アベリュストの提案に難色を示す者が多い中で、リオヴェルトは、賢者の樹についての情報と《詩》の存在を取引に使うことはあってはならないと明言した上で受け入れた。それでも反論しようとした宰相は、澄んだ眼差しに出会って言葉を呑み込んだ。
 なにを映しなにを語りかけようとするのか。まるで掴めないような透き通った瞳で、正しい判断を下していたローヴァンの後継者。あの頃は仮面ですらなかった。
 その彼の許可を得たアベリュストがイシュムルとどのような会話を持ったのか、宰相は知らない。ただ、交渉は成功した、という事実のみを知らされた。
 自分も含め《無名の騎士団》がアベリュストに対する認識を改めた瞬間だった。
 衝撃は、底の知れない青を見る度に蘇る。時折おぼろげながら掴んだような気になることもある――たとえば先刻のように、ひどく容赦なく追い込まれた時などに。
 ふいに、アベリュストが苦笑と失笑が混ざったような笑みをこぼした。
「なんと?」
 機敏なグリーク伯爵の問いかけに目を上げると、彼は手にしていた紙をひらひらと翻した。
「関与するところではないが現在調査中、と言いたいようです。なぜ調査する必要があるのかと、訊いてほしいのでしょうか」
「回りくどいな」
 鼻で笑ってから、グリーク伯爵はゆったりと足を組んだ。
「心当たりは?」
「ないですね」
 言いながら、彼は窓際に置かれていた小机の引き出しから紙とペンを取り出す。さらさらと何事かを綴って折り畳み、足輪にしまいこんだ。
 肩から腕に戻されたウェル=ガレムは、小さな首を巡らせアベリュストを見る。濃橙の瞳を受け止めたアベリュストが頷き、軽く背を叩くと、鷹は翼を広げ窓から飛び立っていった。
 後に残された灰色の羽がふわりと舞うように床に落ちていく。
「あまり長居をされては、落ち着いて話もできません。とりあえず、よろしくお願いします、とだけ返しておきました。――リオンは内応を疑っていますね」
 拾い上げた羽をくるりと回して机上に置く。振り返り、アベリュストはにこりと屈託なく笑った。

 この男は笑顔の仮面でもつけているのか。
 宰相は眉をしかめた。だから腹の底が知れないなどと言われるのだ。
 真実であった場合、向かう先を予測しないわけではないだろうに。第一、懐を探られていい気分でいられるわけがない。
 似ている、と感じる程に不機嫌の指数が上がっていくような気がする。度重なる緑の館の滞在で我が君主は不要なものまで吸収しているのではないか。
「笑いごとではありませんな。私は耳を疑ったが」
 実際、サウラに出向くためのリオヴェルトの口実かとさえ思ったほどである。
 緑の館の使用人の採用には《無名の騎士団》の審査がつく。複数の厳しい監視を潜り抜けて、あの館に侵入することが可能であると思えなかったのだ。
 睨んだ先で、アベリュストは浅く頭を下げてみせた。わかっているのかどうか。
「あまり考えたくはありませんが、時間をかければ凝った嘘が育つかもしれません。彼らは百五十年前から知っています。ましてや賢者の樹は、しばらく安定を欠いていました。察知できなかったということもありえます」
 同じことをリオヴェルトが言っていたことを思い出す。グリーク伯爵が口を挟んだ。
「いや、考えられるのはイシュムルだけではない。ブレノス皇国にはオードの嫡子とジェルミーの三男を送っている。手配を整えるのに手間取り、出発は今朝になってしまったが」
「我々としても、差し当たってこの翠月を乗り切れば一息つくことができますからな。賢者の樹がほぼ回復しているということであれば、来年まで時間が稼げます。対処法ではあるが、双方とも長期戦となるのは致し方ない」
 グリーク伯爵の報告に重ねて私見を補足しておくと、アベリュストは小さく頷いた。窓枠に片手を置き、身を傾ける。
「イシュムルとはどこまでもお付き合いさせていただく所存です。交渉はサウラでも可能ですので。……リオンが緑の館に滞在したいというのは、彼のわがままですね。軽く突いてみたら、怒られてしまいました」
 ふ、と奇妙な間が空いた。
 今日は居心地の悪くなるような不安を覚える話題ばかり出てくる。
 顎に手を当ててしばらく考える表情を見せていたグリーク伯爵が、心を決めたように口を引き結ぶ。珍しく躊躇いがちに切り出した。
「翠の姫君の様子はいかがか」
「悪くはない、と思いたいですね。皆さんのご厚意には感謝しております」
 これまた珍しい真摯さで答えたアベリュストに、彼は苦みを忍ばせた低い声を返す。
「感謝しても足りないのは我々の方だろう。彼女は《詩》だ、この上なく」
 宰相は思わず頷いていた。
 憂いを秘めた翠の少女。細く頼りない少女を初めて見た時、似ている、と思った。なにより痛ましさを感じた。
 端から賢者の真意が人間にわかるとは思っていない。ただ信頼があるだけだ。だからこそ、賢者の樹に疑問を抱くのが最初で最後であることを強く願った。
 安らぎを紡ぐ癒し手であるはずの《詩》に、同じ痛みを持つ者を選んだ賢者の樹。
 確かに共感は容易く、絆を強固に感じることもあるだろう。だが人である彼女は、恐らく近づくほどに鏡合わせのごとく冥い闇を見出し、辛い思いを繰り返すことになる。
 あの少女が抱える闇は、暖かいものではないはずだ。
 何度目の溜息だろうか。諦めに近い心境で悔いの塊を吐き出しつつ、こめかみに手を添え重い頭を支えた。
 指先のぬるさが気に障る。
 考えることも憚られるが――ロヴァニアは、無関係であったはずの少女を犠牲にしたのでないだろうか。救ったのではなく。
「我々は無力ですな」
 弱音を抑えきることができなかった。青い瞳が、わずかに見開かれる。
 しばらく続いた沈黙の後に、かすかな吐息が聞こえた。
「そうですね。なにがよかったのか、私にはわかりません」
 なにかに誘われたように、彼は窓の外を向く。新鮮な緑の風に身を浸して目を閉じた。
「ディアスに養子を迎えたと公表しなかったのは国やあの子の事情だけではなく、私自身に迷いがあったからでしょう。これまでサウラでは大事な預かりものだと説明をしてきましたが、準備ならとっくにできていますよ。もう迷いはありません。後継者として迎えてやることはできなくても、彼女の居場所を守るくらいのことなら私にもできます。あの子は既にリンディ・エル・ディアスなのですから」
「だが、陛下は……」
 言いかけ、群青の強い眼差しに制されて宰相は口をつぐんだ。軽率すぎたと自省する。
「リオンはリオンですよ。私が私のできる範囲で叶えてやれるのは、自分の娘の望みだけです」
 流麗な輪郭を描く横顔は憂慮の色に染まっていた。
「あの子はまだ望んでさえいない。……それなのに、私はさらに彼女を傷つけるようなことをしようとしています。不本意なことはしないに限るとは、まさにこのことですね」
 ひそりと漏らされた寂しげな声に、宰相は胸を突かれる。
 別人もいいところだ。こんなに無防備な姿を晒すとは思わなかった。確かに素直な男だとグリーク伯爵は評していたが。
 いきなり普通の若者に見えて、宰相は驚きのあまり目を瞬かせた。
「高望みだろう」
 底辺から振動するような響きを伴って、叱責に近い声が打たれる。姿勢を正させるような厳しい一声は、さすがに軍人であると言うべきか。
「個人の手に余る領域を悔いても仕方あるまい」
「志は高く持っておきたいんですよ。ありがとうございます」
 青い目が、照れを隠すようにいたずらっぽく微笑した。向き直った顔は、既に元に戻っている。
 窓辺から身を離し、アベリュストは服を払って乱れを直した。
「そろそろ皆さんがいらっしゃる頃でしょうか。着替えをしてきます。その後外で英気でも養ってきますので、よろしくお願いしますね」
 最後のとんでもない一言に、宰相は軽くむせつつ焦って立ち上がった。これだから油断はできない。
「待ちなさい。会議はどうするおつもりか」
「お任せ致します」
 それではまた、と言い残して彼は扉へと歩いていく。
 冗談ではなかったらしい。いや、悪い冗談だった方がまだましだろう。
 後ろ姿に追いつき引き止めようと手を伸ばしかけたところで、ようやく足が止まった。
「イシュムルの連絡書は机の上に。……初日はともかく、《無名の騎士団》の会議に連日サウラの領主が立ち会うのはおかしいでしょう? 小トテイアに拘束されるはめになった気の毒な田舎者に同情していただいてきます。もちろん詳細は秘密ということで」
 振り向いた満面の笑顔に絶句する。今後の会議をすべて欠席するつもりなのか。
「必要に応じて出席するよう言われましたが、ロイド公爵にはお許しいただきました。怪しまれるよりはましということです。それから、大事なことを言い忘れていました。揉めていた、今件を公表することの是非についてですが、リオンは皆さんにお任せします、と」
 主君の口から度々出てくる「お任せします」は、やはり不要な吸収のせいに違いない。今となっては黄札がかわいく思えてくる。
 呆れ果てて唸っていると、背後から重低音が飛んできた。
「好きにすればいいが、後で文句を言っても聞かんぞ」
 ソファの背に手を持たせ、体を捻るようにしてグリーク伯爵がアベリュストを睨みつけている。
 彼は柔軟ではあるが、秩序や規律といったものには甘くない。発言者の性格を省みるに、取りようによっては不穏な発言であった。
 心強い同調者であるはずなのだが、妙な間に挟まれて宰相は冷や汗を流す。
「壁に向かって愚痴る程度は許してください」
 一瞬考える間をおいて首肯し、ひらりと手を閃かせるとアベリュストは部屋を出て行った。
 緊張の糸が切れ、安堵にも似た脱力感が肩から抜けていき宰相は倒れるように壁にもたれた。
「陛下もあの程度の図々しさを持った方がいいな」
「いいわけがない」
 あながち冗談ではなさそうなグリーク伯爵の独り言を、宰相は渾身の力を込めて否定する。不快の念を込めて視線を送ると、素知らぬ顔で彼は凝った肩を回していた。




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