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第5章  果てなき螺旋


 明るい陽光を反射して、眩く輝くシ・ア・ランス。荘厳な白い建物を多くの人々が出入りし行き交う。憩う婦人たちは花のごとく優しく庭を彩った。
 しかしながら、普段と変わらない光景にはどこかそぞろな雰囲気が漂う。人々の関心は、派手な登場で驚かせた風変わりな領主と王宮裏手に広がる神秘の森に集まっていた。
 王宮より発表はまだない。皆一様に、笑みを交わして情報を探っている。


 瑞々しい香りが鼻をくすぐった。
 重なる葉に微風が触れ、時折乾いた音をたてる。隙間から零れる光は弱く強く移ろい、ほのぼのと明光を宿した空気が満ち満ちていた。
 森の一角を切り取ったかのような空間にひそりと佇むのは、緑の屋根の小トテイア。王の滞在場とは言え小館の名に相応しく、内装外観ともに素朴でこざっぱりとしている。
 サウラを訪れたことがある者であれば、どこか既視感を覚えるかもしれない。
「お早い到着ですね。会議までまだ時間がありますよ」
 突然姿を現した来訪者を、アベリュストは笑顔で迎える。ソファにゆったりと身を沈めていた来訪者は、機敏な動作で立ち上がった。
 落ち着き払っていて、油断のならない引き締まった空気。その身に潜むものは、猛禽の気配を思わせる。
 隙の見当たらないような整った容貌。固く結ばれた口元。暗い金髪には白いものが目立ち始めていたが、鍛え抜かれた体躯が衰えを感じさせない。
 刃のように鋭い群青の眼差しがまっすぐに向けられる。視線が合うと、目尻に寄った皺が深まった。
 ディーン・エル・グリーク。軍の最高司令官である。
「いや、あなたに用があって早くにきた。邪魔をする」
 軽く頭を振り、底から響く太い声で彼は言った。王太后クリスティンの住まう離宮セア・ミンスを訪れた足を伸ばしたのだと。
 夫人絡みの用事を言いつかったのだろう。彼の妻アマリアは現王の伯母、つまりは亡き前王の姉にあたる者だ。義妹であるクリスティンの数少ない交流相手でもある。
「歓迎です。昨日はゆっくりお話もできなかったですからね。王太后のご様子は?」
 遠き北の国ユンゲルグ王国の第三王女であった王太后は、嫁いで以来シ・ア・ランス敷地内にある離宮に静かに居を構え、離れることは滅多になかった。
「変わらんよ」
 短く答え、グリーク伯爵は遅れて部屋に入った宰相を認めて軽い挨拶を述べた。宰相も気安い口調で言葉を返す。
 グリーク伯爵の方が年長ではあるが、同輩である宰相とは先の王の時代から苦楽を共にしてきた仲間であり、気心も知れているのだろう。
「奥方のご容態は?」
 椅子を勧め、二人が座るのを待ってアベリュストも腰を降ろす。グリーク伯爵はかすかな笑みを浮かべた。
「最近はよほどいいようだ。心遣いに感謝する」
 近寄りがたいような外見に似合わず、グリーク伯爵は愛妻家としても有名であった。
 夫より五歳年上のアマリアはシ・ア・ランスにいた頃は健やかであったと聞くが、嫁いだ後に体調を崩して以来長らく床に伏せがちな生活を送っていた。
 茶を運んできた女官が退出するのを待って、グリーク伯爵は口を開いた。
「久々の王都はいかがか」
 率直に、窮屈です、と言いかけ、隣の視線を察知して言葉を呑み込む。
 こういった配慮は面倒だと思うのだが、常識が欠落しているということらしい。単純に向き不向きの問題なので、気を悪くするようなことでもないと思うのだが。
 とりあえず、当たり障りのない返事を返すことにした。
「お蔭さまで、よくしていただいております。散歩を自由にさせていただけるともっと快適ですね」
 それでも一言付け加えてしまうのは、リオヴェルト・ルイス・アル・ローヴァンあたりに言わせると、意味ないですね、ということになるのだろう。
 宰相の眉がぴくりと動く。どうも自分の周囲には細やかな者が多いようだ、と声を出さずにアベリュストはぼやいた。
「暇があるなら書類を持ってこさせるが」
 不快の文字を声に潜ませつつ、宰相が会話に割って入る。面長の顔には、不謹慎極まりない、と書いてあった。
 ここではっきりと断っておかないと、明日から本当に書類を山のように運んでくるに違いない。片手を振って固辞しておく。
「謹んで遠慮申し上げます。リオンの筆跡を真似るのも面倒なんですよね」
「サインでは済まない件を、サウラに投げているように見えるのは気のせいか。残った書類がサイン入ればかりになるのは当然でしょうな」
「私はローヴァンではなくディアスの者ですので、国のことを一存では決められないですよ。ローヴァンがサウラのことを一存で決めるのは自由でしょうが」
 敏感に反応して、宰相が探る顔つきをする。アベリュストはにこやかな笑顔を浮かべてみせた。
 疚しいことなどなにもない、と言わんばかりの一点の曇りもないような笑顔を。
「いくら運命共同体とはいえ、他所の方に台所事情を公開するほどの度胸はありません。翠月祭を控えた大事な時期ですしね。相談しましたら、リオンが全部やると言ったのですよ。ですから、私の行動は王の意向に沿ったものでありましょう」
「貴殿は遠慮という言葉をご存知か」
 口元をひくつかせて呻いた後に、宰相はしかめつらしい顔をしているグリーク伯を軽く睨んだ。
「笑いごとではないのだが」
 親しい間柄の者にしかわからないことなのだろうが、表情は変わりないように見えて彼は笑いを噛み殺しているのだ。
 八つ当たりを受けたグリーク伯爵は、軽く肩をすくめてみせた。年季の入った者は流し方も堂に入っている、とアベリュストは感心する。
 自分が同じことをしようものなら、即座に雷が飛んでくるに違いない。
「愚息はいかがか」
「代理殿には右の塔の鍵をお渡ししました。あなたによく似ていますね」
 重々しく頷きつつグリーク伯爵は緩んだ頬を撫でた。そのまま顎に移動させ、手を止める。ややして、ふむ、と息をついた。
 父親の顔をしながら、微妙に複雑な表情でもある。
「私はあれほど詰めは甘くないつもりだが」
 確かに、あの青年から無駄と甘さを削ぎ落としたら、ディーン・エル・グリークをそっくり写し取ったような人間ができあがる。しかし、ロヴァニアは有能な人物を失うことになるだろう。
「絶妙な隙がいいんじゃないでしょうか。あの人柄は武器ですね。話すつもりもないようなことまで、つい口走ってしまいます」
 呆れたような仏頂面を思い出して、笑いが込み上げる。
 痛い場所を突いて挑発すると思ったら、途中で呑み込み決まりの悪そうな顔を見せる。そこを掬われやり込められて、憮然としながらも腹に収めている節があった。
「十年前にリオンが出会ったのは、リンディだけではなかったことを思い出しました」

 グリーク伯爵が、白磁の華奢なカップを持ち上げた。皮の手袋に包まれた手は、節のある骨ばった力強い手だ。
 剣を持ち戦をかいくぐってきた戦士の手。
 国王不在の不安な時期、ロヴァニアがまったく平和だったわけではない。西方の国境近くは小競り合いが絶えなかった。
 先頭に立ち、災いを食い止め跳ね返してきたのはディーン・エル・グリークだった。
「陛下は人間になられた」
 喉を湿してから、彼は直截的に言った。
 ぎょっとしたように、宰相がずり落ちそうになった眼鏡を押さえながらグリーク伯爵を見る。アベリュストも、やや意外な気持ちでもって日に焼けた彼の顔を注視した。
 なんの前触れだろうか。
 暗黙の了解で、リオヴェルトが不在の場でもその話題は禁忌に近いものとして避けられていたからだ。これまで、グリーク伯爵が積極的に踏み込んだこともない。
 群青の眼差しをちらりと宰相に流し、彼は落ち着き払った物腰でカップを机に戻す。
「賢者は安定しているのか」
 なにを引き出そうとするのか。真意は量り損ねるが、アベリュストは遠慮なく乗ってみることにした。
「ディアスは、ローヴァンのように契約を交わすわけではありません。大まかな気配を察するのみですが」
 口調の穏やかさを覆す切るような鋭い視線を、深い青が見返す。
「順調に回復していると思いますよ」
 緊張を抑えた動作で、宰相が手にしていたカップを置いた。彼もまた、グリーク伯爵の本意を掴めないのだろう。
 わからないまま話題の向かう先を感じ、落ち着かなく頭を悩ませている。
 が、アベリュストに躊躇はない。のんびりと構えつつ、手っ取り早く核心をついてみた。
「十年前まで、リオンも賢者も死んでいましたからね」
「ディアス侯爵……!」
 嗜める声は、随分とかすれている。表情ひとつ動かさずに、アベリュストは宰相に視線を転じた。
「言葉を取り繕ったところで変わらないと思いますが。先の王が殺したも同然でしょう」
 素気ない口調で切り捨てる。どこまでも主君への忠義を貫こうとする彼の葛藤はわからないでもないが、事実は事実として認めるべきなのではないのか。
 およそ三十年前、ロヴァニアで起きた事件は未だに深く根を張っている。この自分の中にも。
 そして、翠の少女もまた巻き込れている。一切の繋がりを絶った場所に《詩》を見出した賢者の悲哀から、目を背けることなど許すわけにはいかない。養い子のためにも。
 だが、引けない理由が宰相にもあるのだろう。厳しい眼差しが頑固にアベリュストの視線を押し戻す。
「どうしようもなかったのだ」
 怨言を吐きたいわけではない。そんなものはいつしか消えてしまっていた。
 求めるのは、始点を誤らずに見つめ受け止めること。思考を止めたら、後にも先にも進めなくなる。
 束の間思案に暮れて、アベリュストは机の上を指先で軽く叩いた。
 使用される回数が少ない小トテイアの家具には傷があまり見当たらない。なまじ似せる意図を感じるだけに違和感があるな、と頭の片隅で思う。
 結局、アベリュストは迂遠な表現を探すのを諦めた。
「どうしようもない、とは、ローヴァンを否定しディアスを侵蝕しようとしたことがですか」
「……苦しんでおられた」
「死んでしまえば無ですね。ですが、生きる者には苦しみが残る。悲劇であればあるほどに」
 宰相が怒りに青ざめた。ソファを掴んだ手の白さが彼の中に生じた激しさを物語る。異様に低い声を押し出した。
「故人を冒涜するのは慎みたまえ。あの方は既に癒しの眠りに就かれた」
 押し殺された激情を苦く受け止めながら、アベリュストは息をつく。
 命ある姿で祝福を受けた者は《光る森》で、生を脱ぎ捨て祝福を受けた者は神の御許で安らかな夢を見る。
 それは、うつくしすぎる夢だ――失われた存在を悼む者にとっても。
「祝福を奪っておきながら、苦しみを知らしめた。そんな者が祝福を受け永遠(とこしえ)の安息を得ることなど許されるのでしょうか。それとも、祝福を奪ったのは祖先だから関係ない、という理屈でしょうか」
 それならば、なにをもって断罪とするのか。
 理を超えた特別な存在という認識がなされるのであれば、彼がローヴァンの血を継ぐ者という事実に由るだろう。だが、前国王はそれを否定したのだ。
 なにより、賢者の樹でさえ許されなかったものを、つまらぬ人間という存在が、彼のみが許されるとどうして思えるのか。
 絶句した彼の眼鏡の奥にある瞳を見据え、アベリュストは静かに問いを重ねる。
「オードの後継者であり《無名の騎士団》の一員であり、また一国の宰相でもあるあなたが肯定するのですか?」
 宰相が目を閉じ唇を噛んだ。やるせない疲労に痩躯を沈め、長い息を吐く。
 幾重にも身に絡み苛む美しきもの。繋がりは、喜びにも悲しみにもなる。我々はすべてを身に受け、次に伝えていかなければならないのだ。
「それでも、私には母と祖父がいました。アマリアには、ディーンと子どもたちが。ですが、リオンは独りでした。彼を守る者はいなかった」
 さすがに疲れを感じ、アベリュストは醒めた茶を口に含む。浅い香りが引いた後に爽快な味が広がった。
 これはこれで美味いのだが、フェミナの淹れる茶で一息つきたいものだと、思わずサウラを懐かしんだ自分に苦笑する。
 結構弱っているらしい。
「リオンを理解したいのであれば、彼が乗り越えようとするものから目をそらさない方がいいでしょう。彼は隠したがりですので、簡単に騙されてしまいますよ。騙されたいと思う心があるのなら、なおさら」
 ふいに、言葉を切る。ある前兆を感じ、アベリュストは窓の方へと顔を向けた。漠然としていたものは、すぐに確信へと変わる。
 いぶかしげな表情を浮かべた宰相とグリーク伯爵に、失礼、と断りを入れて席を立ち、窓辺に歩み寄った。ひとつ開け放たれていた端の窓に近づき、カーテンを除けて身を乗り出す。
 薄布に遮られていた微風が蜜色の髪先を震わせ、ふわりと部屋に流れ込んだ。
 耳に届くかすかな羽音。空を見上げる。木々の間に覗く青空には、雲ひとつない。
 鮮やかな蒼穹が沁みて軽く目をつむり、指先で瞼を抑えてからゆっくりと開く。
 と、まっすぐに向かってくる一点の染みが飛び込んできた。力強い羽ばたきで風を呼び、自ら招いた風を切りやってくるもの。
 近づいたと思った瞬間、一際大きな音と共に部屋の中を黒い影が走った。
 大きく翼を動かし、空中で一瞬動きを止める。鋭い爪が、差し伸べた腕を傷つけないように捉えた。
 逞しい腕を組み、ソファに身をもたせながら太い声でグリーク伯爵が問う。
「それは?」
「ウェル=ガレムです。イシュムルの長の使いですよ」
 小柄の美しい鷹を腕から肩に停まらせながら振り向き、アベリュストはごく簡潔に答えた。




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