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 部屋に入ると、リオヴェルトは脇に置かれた椅子にリンディを座らせてから隣に腰を降ろした。
 ファーンは迷わず奥まで行き、机の端に浅く腰掛ける。本棚に囲まれるのも好かないが、本棚に挟まれるのはもっと好かない。今は特に。
 横目で捉えた書類箱はきれいに片づいていた。
 遅れて入室した女官が、ファーンの無作法を綺麗に無視して窓際の小机の上で手際よく茶を用意し始める。
 心を和らげる暖かい香りがたちまち部屋に広がっていった。
「リンディさまが鈍い方だってことはご存知のはずですね? リオンさまもお気をつけてくださらないと」
「ごめん」
 見かけによらず言いにくいようなことをはきはきと言う女官に軽く睨まれ、リオヴェルトは首をすくめて謝罪した。珍しいことに、少し困ったような顔をしている。
 弱味でも握られているのか、はたまた後ろ暗いことでもあるのか、勘繰ってやりたくなる。
 ファーンは、小柄な女官についての詳細を叩き込んだ情報から手繰り寄せた。フェミナ。同じ年だったと思うが、年齢より若く見えるのは身長のせいだろうか。
 緑の館の使用人は年若い者でも歴が長い。リンディと同じような年齢のミティアが六年目だというから驚きだ。女官の中でフェミナは三番目に古く、五年目だった。
 どういったつてで見つけてくるのかは定かでないが、総じて身寄りのない者が多かった。緑の館に家庭的な雰囲気が漂うのは、だからなのかもしれない。
「あの、ごめんなさい」
 居たたまれなくなったのか、小さな声が間に入る。隣の男の数倍は困った表情を浮かべ、リンディは椅子の上で身を縮こませていた。
「なにか羽織るものをお持ちくださいね」
「はい」
 子どもをやさしく窘めるような顔でカップを渡した女官に、少女は子どものようにこくりと頷く。
 羞恥にやや赤らんではいるがその表情は元に戻っているようだ。ほっとする反面ひどく痛ましい気持ちにさせられた。
 初日から感じていた。光を抱きしめた身体は、瞬く間に闇に染められる。それなのに、光を手放さない。崩れない。溺れる手前で踏み留まっている。
 何度も涙を堪えるような気配を感じたが、彼女が泣くこともなかった。
 つい先刻も。
 か細く震える肩。儚い後ろ姿。俯き表情を隠し息を殺して、独りで必死に耐えていたあれは嘆きの姿ではなかったか。
 駆け抜けたのは、闇夜に閃く一陣の風だったのか。それとも……闇の深層に潜む嵐の一角なのか。
 無言を保ったまま軽く腕を組み、かすかに眉を寄せてファーンは談笑している二人を見つめる。
 鈍くもなければ、奥手でもない。豊かというわけではないが、乏しいわけでもなかった。過去に積んだ経験でわかることは幾つかある。
 浮かぶ表情。まとう空気。名前を呼ぶ声。姿を追う視線。瞳が帯びる色。触れた手。
 言葉はなくとも、またどんなに抑えたとしても、何気ない仕草の隅に出てしまう。そういうものだろう。
 ――だが、突然もたらされた違和感がファーンを揺さぶった。
 確信が持てない曖昧なものを探るのは、目に見えない刃こぼれを探す様にも似てどこか苛々させられる。落ち着かなくさせられる。
「どうぞ」
 控えめな声とともに、音もなくカップが机に置かれた。
「リンディさまのお体が冷えておりましたので、こちらが最後になってしまいました。申し訳ございません」
「ああ、いや」
 気持ちを切り替えようと、ファーンはカップを手に取った。……冷静を欠いては、満足に話ができない。
 顎に当たる湯気。芳香を楽しんでから一口含む。熱く喉を滑り落ちていった液体は、腹の底で一瞬燃えてからじわりと沁み広がっていった。
 自分の熱を上回る熱い感覚が、今は快い。頭をすっきりさせる。
「ありがとう。緑の館はしっかり者が多いようだな」
 あら、と言って、身を引きかけたフェミナが振り向いた。
 鮮やかな瞳を、物怖じもせずしっかりと見返して。
「当主さまが適当な方ですから、下の者は皆しっかりしておりますわ。ですが、申し訳ございません。すっかり馴染んだ雰囲気でいらっしゃいましたから、お客さまの前だったということを失念しておりました」
 一度言葉を切ってから、にこりと笑ってファーンの格好を見やった。大きな瞳が夜明けのごとく明るく煌く。
「無作法をお許しくださいませ」
 ファーンは軽く眉を持ち上げる。
 適当、という評を聞くのは二回目だ。人となりを詳しく知っていたわけではない上に初日の衝撃が強すぎて、今一しっくりこないのだが。
なるほど、確かにアベリュスト・エル・ディアスに長くついていることだけある、と妙な感心をしてしまった。
「いや、残念だがどうもお客ではなさそうだ。肩書きが代理だから仕方がないな。お手柔らかに」
 苦笑まじりに答えると、フェミナは腰を折って丁重に礼を返す。そして退出した。

「難しく考える必要はないよ。契約者と《詩》とは違う。ローヴァンとディアスが違うように。あるいは、きみとぼくが違うように。ただ、それだけだ」
 質問するより先にリオヴェルトが口を開いた。長話に備えるように姿勢を楽に崩して、長い足を組みかえる。
「つまり、役割が違うということだ。同じ言葉を聴き感じるわけではないし、どちらもすべてが知らされるわけではない。だれに何を語り伝えようとするのか、決めるのは賢者だ」
 賢者の声を聴くという彼ら。違いというのは、漠然と想像するしかないのだが。
「役割とは」
 塔にあったのは、史書というよりは手記に近かった。ものはついでとばかりに指定外にも適当に目を通してきた。文章としては読みやすいが、著しく気力を要求される手記を。
 既知の情報に新しく得たものを加え、慎重に組み立てる。ゆっくりと、言葉を確かめながらファーンは問うた。
「責任のことか?」
「ローヴァンにとってはね。《光る森》から賢者の樹を連れ去った。賢者の樹から祝福を奪った。……彼はフィリシエラのために力を貸したのだから」
 変わらぬ穏やかな表情を浮かべている彼の隣で、リンディは少々緊張しながらも物思いに沈んでいるように見える。
 膝に置いた手に目を落として。白い顔に陰影が刻まれると、またしても謎めいた雰囲気が彼女を包む。
 普段なら、視線を向けるとすぐに気づいたように顔を上げ、目が合うと慌ててそらす。が、今は視線にも気づかないようだった。
 リオヴェルトは淡々と続ける。
「フィリシエラは没した国を復興させることを望んだ。希望は叶い、ロヴァニアは蘇った。だが、なにかを選んだ瞬間に喪われるものがある。祝福を受けた者にも等しく降りかかることだよ」
 乙女を《光る森》へと導き、乙女と共に《光る森》を出ることを望んだのは賢者の樹だった。同時にそれは、復興を志したフィリシエラとディストレーン、彼らと同行した《無名の騎士団》の望みでもあったはずだ。
 一瞬たりとも忘れたことはない。グリークの血を継ぐ自分にもまた、果たすべき責任がある。
「祝福を捨て、賢者は帰る場所を失くした」
「賢者の居場所はロヴァニアにある。そのためにお前は国を守るのだろう?」
 ほとんど睨みつけるようなきつい視線で、リオヴェルトを刺す。
 迷いがなかったわけではなかった。希望と引き換えの喪失。子孫に還っていく結果。躊躇と悲嘆を乗り越えて、契約は結ばれた。
 リオヴェルトは静かに笑った。
「そうだよ。そのために、ぼくはここにいる」
 透き通った双眸が映し出すのは、穢れを知らない潔癖さではなく痛みを知った毅さであることをファーンは知っている。
 十年前に初めて会った時、既に彼はこの眼を持っていた。
 強い意志と安定した方針で《無名の騎士団》を導いてきた王。即位はわずか十二歳の時だった。
 なぜ穏やかに笑って言えるのだろう。彼が背負ったものは、二重に重いものだったはずだ。
 表情を読んだのか、リオヴェルトの眼差しがやわらかくなる。宥めるように。
「ぼくだけが特別じゃないよ。きみもアベルも、役割は違えど同じものを背負っている」
 ロイド、ジェルミー、グリーク、オード、クリュイスト。
 《無名の騎士団》、六爵家と謳われながらも名前は五つしか挙げられない。六つ目の椅子の名前を知るのは、《無名の騎士団》の一員だけだ。
 ファーンが知ったのは、サウラ行きの直前だった。ディアス。賢者の在るサウラを任された者。
 そして、サウラに来てから知った事実――フィリシエラのもう一つの末裔。
 最初はフィリシエラの手記から始まっていた。

 背負ったものは同じでも、ローヴァンとディアスとグリークはあまりにも違いすぎる。役割が違うと自ら言っておきながら、共有できる部分を拾って取り繕う。
 話がリオヴェルト・ルイス・アル・ローヴァン個人に及びそうになると、彼はいつも笑って自分の重荷を隠そうとするのだ。
「お前のごまかしはもう飽きた」
 苛立ちを散らそうと、ファーンは顔を背けた。万象を覆い隠す闇を吸って、鏡のように反射する窓。映った姿に向けて、憮然と言う。
「ローヴァンは楔――賢者の居場所を守る者だ。では、片割れであるディアスはなんだ?」
「目だよ。史実を記録するのがディアスの役目だと言っただろう。賢者の樹の在る土地を管理し、彼の傍についてロヴァニアで起きたことを記していく。なぜなら、ロヴァニアの歴史は賢者の樹がここに存在する証だからだ」
 知るほどに、折り重ねられてきた歴史の襞と重みに嵌っていく。走った震撼が、自分の甘さを暴いていく。不足すぎた覚悟にファーンは歯噛みをした。
 正史とは、いかに事実を曲げずに真実を隠そうと腐心され築かれてきたものであることか。
 伝説は伝説たりえるために美しく飾られ、精巧に編み上げられる。美化された輝かしい伝説に人は酔い、憧れ、畏れを抱く。
 ――だが。
「リンディ」
 はっ、と細い肩が揺れた。
 ファーンが呼んだのではない。辿った思考に呼応するかのように、そっと名を口にしたのはリオヴェルトだった。
 鏡の向こうの彼女は伏せていた面を上げ、リオヴェルトを見つめた。リオヴェルトもまた、彼女を見返す。
 浮かんだ表情や瞳の色まではわからなかった。
 闇を背景に淡く浮き上がる輪郭は幻想的ではあるが、感情を量れないせいかまるでつくりものが動いているようにも見える。
 もどかしい思いでファーンが視線を戻すのとリンディがファーンに視線を移したのは、ほぼ同時だった。
 真正面から視線がぶつかり、リンディはうろたえたように目をそらす。いきなり普段どおりに示された反応は、逆に今の空気にそぐわない。
 意味もなく、ファーンは吹き出すところだった。
 初日と違う点は、いつしか追い詰められたような怯えきった気配を見せなくなったことだろうか。
「……彼は哀しい」
 ためらいがちに、少女が呟く。そのまま再び沈黙に入るかと思っていたファーンは、目を瞠った。
 《詩》である自身の言葉を、グリークの末裔に伝えようとする意思だ。この部屋にいる意味をリンディが理解していることを悟る。
 できない話があることを承知で、リオヴェルトの隣に彼女がいる時に話を持ちかけた。事態から言えば、優先させるべきことは他にあったかもしれない。
 例えば、イシュムル。彼女には伏せろと言った意味を、先に確認すべきかもしれない。
 だが、なによりもまず、偉大なる賢者の寵愛を受ける者の真実を知りたいとファーンは思った。
 《詩》に責任はないはずだ。受け継がれる血もなければ、契約も関係ない。
 その存在を賢者は探し、欲する。ただそれだけだと思っていた。
 寵愛を受けるだけの受身の存在ではなかったのか。《詩》の役割とはなんなのか。
 塔の手記を読んだであろう彼女が、どんな思いを抱いてサウラに、ロヴァニアにいるのか。
「賢者の樹が愛したフィリシエラはもういない。彼女の歌は彼の中に残るけれど、彼女にはもう会えない。フィリシエラは子どもも遺した。彼は子どもたちも愛した。なにがあっても、思いは変わらない」
 紡がれる声こそが歌そのもののように。
「彼はわたしを愛してくれます。だから、愛したいと思いました。でも、わたしはうまくできないかもしれません」
 語尾が震えた。懸命に言葉を捜すように、床に落とした視線を彷徨わせる。
 一瞬色を変えたすぐ傍の気配に、彼女は気づいただろうか。
「仕入れたばかりの知識だ。翠月祭とは賢者の樹の聖誕祭であり、救国の乙女の鎮魂祭である。翠月の一月間、彼は安定を損なう。風が運ぶ声も水が簡単に遮ってしまうという。うまくできないというのは」
 乾いた口から、ファーンは声を低く押し出す。目を合わせれば動揺させてしまうことがわかっていながら、彼女から目をそらすことはできなかった。
「きみが異国人だからか?」
 リンディの動きが凍りつき、握った手に力が込められる。隣にいる青年のこめかみがかすかに震えたのを奇妙な冷静さで目に捉えながら、ファーンは返事を待った。
 感じた汗ごと強く拳を握り締める。手のひらに爪が喰い込み、悔恨の痕を刻んだ。
 窓に駆け寄り開け放ち、外を流れる冷たい風や暗闇を部屋に招き入れたくなる。すべてをこの身に取り込んで、いっそ嵐となってしまえばいい。
「ごめんなさい。わかりません」
 長い沈黙を置いてから、細い声で彼女は答えた。首を振った動きに併せ、淡く輝く髪がさらりと流れ落ちる。
「賢者もなにも言わないの。翠月以外も、雨が近づくと声が届かなくなります。時には、夜の湿気にも遠ざけられてしまいます。……でも、うまくできなくても、わたしは彼を守りたい」
 ファーンは言葉を失ってリンディを見つめた。そんな感情をどこに隠していたのか。
 ――確かに、血や契約から自由である彼女はローヴァンやディアスとは異なる位置にいる。自分とも。だが、根底にあるものはやはり同じなのだ。
 この話題にだけリオヴェルトが平静でいられなかった理由を、ファーンは理解した。
 転じた視線の先で、青年は顎に片手を軽くあて、話を始めた時の穏やかな顔のまま何ごとかを考えている。表した感情の波は、次の瞬間には透明な膜に包まれ隠されてしまっていた。
 険しい眼差しに気づき、リオヴェルトが顔を巡らせる。一度目を瞬かせてから、仕方がなさそうに笑った。
 いたずらが見つかった子どものような顔をする。
 舌打ちをしかけてリンディが目の前にいることを思い出し、無理やり飲み込む。不機嫌な顔で、ファーンは彼を睨みつけた。




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