湿った気配が静かに満ちていく。空を染め上げ落ちていく太陽。鮮やかでいて熱のない光が地上にあるものすべてを抱きとめた。
見る者の心を奪う、美しさと恐ろしさが同時に並び立つ奇跡のように危うい一瞬。
この一瞬だけ願う――早く落ちてしまえばいい、と。
庭には、南奥に置かれた小さな東屋の他に休憩所が所々設けられていた。適度に光を遮る周囲の木々は向こう側にある庭の景色を隠すことはなく、快適な空間をつくりだす。
途中を端折って西から入り、ぐるりと庭を内周する道に沿って散策と休憩を繰り返していたリンディたちは東屋を通り過ぎ、館近くの休憩所で憩っていた。
どの休憩所からも庭は一望できる。中央に置かれた小さな噴水が、金色の雫を弾かせる。
リオヴェルトは肘をついた片手に頬を預け、夕日に濡れる庭をしばらく無言で眺めていた。傾いた陽光を受けた自身の髪もまた紅金に輝く。
やはり無言のまま、リンディは彼を見ていた。ふわりと彼の視線が戻される。
「寒くなってきたね。そろそろ戻ろうか」
石の椅子から立ち上がると、彼はリンディの肩に軽く触れた。暖かい手でやさしく叩いてから、館へと歩いていく。
束の間見送ってから、長い髪を揺らし息を弾ませ懸命に追いかける。先を行く影の速度が緩んだ。一筋の間を作って並んだ長い影。
しっとりと湿った闇が次第に濃くなり姿を変えていく。
ふいに、リオヴェルトは玄関先で歩みを止めた。何かに気づいたように視線を巡らせ、微笑を含ませる。
彼の視線を追ったリンディは、最初はわからなかった。暗朱に紫に変化して留まらない色を被った高く濃い影にしか見えなかったからだ。
やがて、影に見えるのは光のせいばかりでないことに気づく。
「やあ、久しぶりだね」
久しぶり、とリオヴェルトが言うのももっともだ。
昨晩の席から彼の姿を見た覚えがない。朝はどうしたのだろうとは思っていたが、なんとなく聞きそびれてしまっていた。
「なにが久しぶりだ」
夕日を半身に浴びた黒ずくめの影は、無愛想な返事をした。近くで見ると、その締まった顔はいささか精彩を欠いているようにも見える。
「辛気臭い部屋に長い間閉じこもっていると、体が鈍って仕方がない」
眉根を寄せて重い溜息を吐き出した。疲れているようで、機嫌もあまりよくなさそうだった。
やってきた方角からしても、彼が篭っていたのは右の塔に違いない。リンディは記憶を辿って、最初の日にリオヴェルトが彼に塔にあるものすべてに目を通すよう言っていたのを思い出した。
あの膨大な量の資料を、今までずっと読みふけっていたのだろうか。
驚いて、ファーンを見上げる。と、ばちっと目があってしまった。まっすぐな群青の双眸がわずかに見開かれる。
大きく跳ねた心臓を押さえ、慌ててリンディは顔を俯かせて彼の視線から逃れた。
「でも、途中で女官長に追い出されて休憩できただろう?」
リオヴェルトが喉の奥で笑いを殺しながら言う。む、と微妙な声をファーンは漏らした。
どこか悔しそうでもある。
「なんで知ってるんだ?」
「経験者だから」
「……お前はともかく、初対面に近い俺は少しくらいお客扱いをされてもいいと思うぞ」
不貞腐れたような声で憎まれ口を叩く。リオヴェルトが声をたてて笑い出した。
「すっかり馴染んでるじゃないか」
女官長は、日に一回の塔の掃除を決して欠かさない。随分と遠慮なく追い出されたのだろう。
脳裏をよぎった懐かしい光景が重なる。
子供の頃、よく塔に入り込んでリオヴェルトの話を聞いていた。賢者の樹の話。ロヴァニアの成立、伝説、歴史。《光る森》のこと。大陸全土の話。シ・ア・ランスの話。サウラの話。リオヴェルトのこと、アベリュストのこと。……昔の話。
そんな時間が一日の多くを占めていたあの頃。部屋に閉じこもってばかりいないでお日さまの光を浴びてらっしゃい、と毎日のように眩しい庭に放り出された。
今でも、時間を忘れて作業に没頭していたアベリュストが追い出される光景を見られる時がある。気分を害した風もなくおとなしく従って、のほほんと庭を散歩する彼に付き合うのもリンディの日常となっていた。
万事そつがなくきっちりしているように見えて、アベリュストはかなり大まかな性格をしている。
時間は毎日決まっているんですから、子供じゃないでしょう、と小言を漏らした女官長に、その時間がきたら追い出してくださいね、と呑気に返して呆れられていた。
動く気配のない主人をぎりぎりまで待っていた女官長は、すでに定刻になったら言われた通り容赦なく追い出すようになっている。
リンディはリオヴェルトの横顔を見て、くすりと笑みを零した。
――そんな彼に鍛えられたリオヴェルトが細部にまでよく気の回る性格になるのも、無理はないかもしれない。
気配を感じて、やさしい水色が降りてくる。
「なに?」
「あのね、アベルは今でも追い出されてるから」
そう、と微笑まじりに答えながら滑らかな輪郭を描く顎に手をあて、リオヴェルトはなにかを考え込む。ややして、肩をすくめてみせた。
「適当なくせに他人に任せるのはやけにうまい人だな。……だそうだよ、ファーン」
おもしろがるような表情。ファーンに構うのが楽しくて仕方がない、といった感じにリンディには見える。
彼自身年若いこともあって、年上の者を相手に少し大人びた表情で話しているところしか見たことがなかった。アベリュストといる時はそれなりにくつろいでいるようだけれど、こんなに崩した風でもないと思う。
「お前のその妙な評を聞いて嬉しいと思えるか」
知ってか知らずか、素気ないファーンの呟きが今日最後の光に溶けていった。
長くて細い髪を風が攫う。夕闇の中、光の軌跡を描いて流れる髪。さらさらと擦れる音は風の音に似ている。
しめやかに、安らかな息吹のごとく大地を撫でる涼風が闇に呑み込まれていく。よぎる風の合間からもまた滲み、確実に濃度を増していく冷たい闇。
昼と夜の狭間で揺れる儚い闇とは異質の、それは内から広がり隈なく浸透していくどこまでも深い闇。
沈んだ陽の名残は、瞬く間に夜の色に塗り替えられていった。
「……読んだのはいいが。混乱して頭痛がする」
滑らかな声が静寂を裂いた。挑むような群青の瞳がリオヴェルトを射抜く。
「読んで終わりということはないだろうな?」
地の底に隠れた太陽の代わりのように、力強く鮮烈に。放たれた輝きは闇を撥ね返す。
先ほどまでまとっていた軽く絡むような戯れるような空気は払われている。張りついていた疲労も風に拭われて。拮抗した陽気さと鋭さが弾け、ぴりりと刺激するような独特のその雰囲気がいつしか露になっていた。
彼の中でなにかが切り替わったのがわかる。
「たぶん考えすぎだよ」
闇を吸い込んでも小揺るぎもしない澄んだ眼差しが応えた。鋭利な視線を穏やかに受け止めて。
「冷えてきたから中に入ろう」
沈黙に覆われた外とは対照的に、館内は活気が満ちていた。宵の時を迎え、灯が照らす暖かな光の中で使用人たちが動く気配がする。
玄関ホールで通りがかったフェミナに、リオヴェルトが近寄り話しかけた。小柄な彼女の表情は、リオヴェルトに隠れて見えない。どんな返事があったのか、彼は困ったような表情を浮かべつつ頷いた。
彼女の耳に口を寄せ何ごとかを耳打ちしてから、戻ってくる。
少し睨むようにして青年の背を追っていた夜明け色の瞳が、ふとそれて翠を捉えた。
不意を突かれて見せた動揺に慌てた様子も見せず満面の笑顔で応じると、彼女は奥へと消えていく。
「晩までにはまだ時間があるそうだ。執務室が適当かな。……リンディは少し暖まった方がいいね」
突然名前を出され、ずっとフェミナに気を取られていたリンディは驚いて瞬きをする。すると苦笑が向けられた。
「気づいてないの? 随分冷えてるよ」
すらりと伸びた長い手が白い手をやさしく取る。感じた熱にぴくりと動いた細い指先を、もう片方がやや強く引いて包み込んだ。
じわり、と沁みこんだ暖かさにようやく気がつく。恐らく、彼の手が熱いというよりは自分の手が冷たいのだ。
冷えやすい体質ではあるが、今日はそれほど寒さを感じなかったから無自覚でいた。
移された熱はしびれを伴って広がっていく。解きほぐし、呼び起こし、逆撫でる感覚。リンディは思わず身を震わせる。
確かに同じものなのに、伝わるものはどうしてその日その瞬間で違うのだろう……。
哀しいような切ないような、夕日に揺れる闇に似て心もとない色を秘め、深い翠がすがるように水色を見つめた。
「フェミナがお茶を用意してくれる」
けれど、かすかに笑ってそっと手を離した彼。そして、踵を返す。
熱を失って、すぐに冷たくなる手先。温もりを追って伸ばしかけた手を、きゅっと握って胸の上に引き戻す。
簡単に背を向ける彼が、いつも歩調を緩めて待ってくれることは知っていた。昨日までも今日も、今だって。
それなのに、一瞬立ちすくんでしまう。こんな風に不意打ちでやさしくされつつやんわりと距離を置かれると、追えなくなることがある。
違う。置いたのではなく、それは普通の距離なのだ。
瞬間、鋭い痛みが胸を突く。悲鳴をあげそうになって、握った手を強く胸に押し当てた。冷たい感触が体に食い込んでいく。
なんて身勝手なのだろう。やさしさにすがったままなにも見たくないと目を閉じている。
いつから? いつからそうしているのだろう。
(いつまで、そうしているのだろう……)
振り向くことはなく、姿はただ遠ざかっていく。早く追いかけないと手が届かなくなるかもしれないのに、身動きができない。
――見てはいけない、と遠い声が囁く。
(同じなの? だから、そのままでいいと言ったの? 守られた場所で、このままずっと……それでいいから、と?)
確実に遠ざかっていく後ろ姿さえも、見なければ、それで。
だけど目を閉じても、痛みはこの胸のうちに残る。何も訊けず伝えられず、立ちすくんだまま過ぎていく日々。わかっていても、かりそめの幸せにくるまっていたいと愚かにも願う。
……願いは叶えられている。
痛くてちぎれてしまいそうでも、耳を塞ぐことはできなかった。すべてを追い出してしまったら、空っぽになってしまう。あの日取り戻してくれた大事なものを、再び失くしてしまったら。
失くしてしまったら……夢が始まる。
「行こう」
低く強い声が近くで聴こえた。馴染みの薄い声に掬われて、我に返る。同時にすっと隣を抜けた黒い影。目も合わさずに、前だけを向いていた。
その鮮やかな存在に引かれるように。細く震える息を吐き出してから、続いた。
待って、と言えたなら。……たった一言でも言えたなら。
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