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 森に行くつもりで部屋を出たところで、珍しく切羽詰った顔をしたリオヴェルトと鉢合わせた。
「ちょっと息抜きにつきあって」
 そのまま腕を取られ、引きずられるようにして表に連れ出される。
 昼下がりというには遅く、夕刻というには少々早いような時間帯。短い草をさくさくと踏んで、西の小道へと進んでいく。
「リオン? どうしたの?」
 歩調が緩まったところで尋ねると、彼は肩で大きく息をついてからようやく立ち止まった。
「マルトから逃げてきた」
 振り向いた水色の瞳は妙に真剣だ。リンディは表情と言葉の繋がりが見えなくてきょとんとしたが、
「選りすぐりの難件を、サウラ、ロヴァニアの区別なく運んでくるんだよ」
 そこはかとなく陰謀のにおいがする、と重々しく説明されてようやく理解する。同時に、アベリュストの澄ました笑顔が脳裏に浮かんだ。
「リンディが傍にいる時だけ追求が緩むんだ。明日からも頼むよ、切実に」
 ということは、自分のために時間を空けてくれるということだろうか。
 浮かれて忙しい彼の邪魔をしてはいけない、なるべく控えていよう、と思っていた。
 リオヴェルトの長い滞在は十年ぶりで、昔に戻ったような気分にさせてくれる。でも、もう自分は分別のない子供ではなく、アベリュストだっていない。
 憂慮すべき事件を引き起こそうとする者がいて――あらゆる面で昔とは違いすぎるのだから、と。
「うん」
 ほんのり嬉しくなって頷くと、彼は軽く呆けたような表情を見せ、次いで複雑な表情を浮かべた。
「利用してるとかされているとか、拗ねる気配もないところがリンディだな」
 しみじみと言われて、リンディは首を傾げる。
 そもそも、だれがだれになにで利用され利用しているというのか、さっぱりわからない。
 少し考えてから、聞いてみた。
「利用されてるの?」
「危なっかしいな。悪い奴に騙されないよう気をつけるんだよ」
 話の筋からすると、それは、今の彼が言っても説得力がないような気がする。
 ちらりと伺うと、降りてきた視線とかち合った。含まれたいたずらっぽい微笑に、自分の考えたことがしっかり伝わっていることを知る。
 ……危なっかしく見られるのも無理はないかもしれない。
 そういえば、使用人たちに心配をかけたのもつい先日のことだった。
 表情や態度に出しすぎているのだろうか、とリンディは反省した。
 ゆらゆらと頼りないことばかりだ。このような状況だからこそ、自分が毅然としていなければならないのに。

 傾きかけた日差しの中、春に彩られた庭を愛でながらゆっくりと並んで歩いた。見ようによっては野趣溢れる、と表現してもいい表の庭は、自然にはありえない自然さが確かな技術によって演出されている。
 時に会話を交わし、時には無言で。夢のように穏やかな時間が流れていく。
 と、難しい顔をしている、と長い指が眉間をつついた。
「なに、悩みごと? それとも、賢者のことが気がかり?」
 やさしい目に覗き込まれる。
 顔に力を入れていたので強張って見えたのかもしれない。却って心配をかけてしまったとリンディは慌てた。
「違うの。あの」
 口を開きかけて、――次の言葉に迷う。なんとなく、理由を言うのも恥ずかしい。
 透んだ眼差しの先で、しばらく翠が揺れる。
「あの、いろいろ顔に出しすぎなのかなって思って、それで」
 ちょっとした葛藤の末に小さな声で伝えると、彼はまず表情を消して息を止め、けれど耐えきれなかったらしく、不自然で中途半端な沈黙の後にとうとう吹き出した。
 さすがにむくれ、今度こそ本物のしわを眉間に刻んでリンディはそっぽを向く。足を止め、彼の隣から逃れて抗議の意を表した。
 少し離れたところで立ち止まり、間を置いてから戻ってくる気配。
 宥めるように、広い手が頭に置かれる。
「そんなに頑張らなくていいから」
 でも、くすくすと笑ったままなのだ。やっぱり説得力がないと思う。
 白い頬を幾分紅潮させてリンディが強情を続けていると、置かれた手が後頭部に回り、僅かに力を込めて顔の向きを変えた。
 水色の瞳が、びっくりするほど近くにある。が、近すぎる距離はすぐに忘れた。
 なにかが、ぎゅっと心臓を掴んだような気がして。
(……なに?)
 近くでいて届かない場所で一瞬だけ閃いた、忍ぶような痛いような、儚いようななにか。弱く強く定まることのないあやふやなそれをもう一度捉えようと、息を詰めて見つめる。
 違う。捉えるのではなく……。
 ――ふっと吐息を感じた、瞬間。
「ごめん。機嫌直して」
 囁きが耳を掠め、肩に重みがかかった。日向に似た匂い。やわらかい髪の感触が首をくすぐる。
 細い肩に額を預け、少女を抱きかかえるような格好で、リオヴェルトはまだ笑っているのだった。
 リンディは呆気に取られ、それからますます顔を赤くした。
 ……抑えるのにそこまで苦労するほど笑うことはないと思う。
 「無理に堪えてくれなくてもいいです」
 次第に黄色や赤を帯びていく光の中で、緑を抱いて佇む館。どの瞬間を切り取っても美しい光景だけど、今日は心に響かない。
 可能な限り尖った声を出しておく。

 やがて顔を上げた彼は、笑いの名残を目元に滲ませつつ、
「きみはそのままでいいよ」
 髪を梳きながら離した手で、ぽん、と背中を叩いた。一連の動作で、先に立って歩き出す。無言で後ろ姿を追ったリンディは、彼の前方にいる人物を見つけて視線を泳がせた。
 すぐにはっと我に返り、背後に隠れるようにして続く。
「仕事熱心だね、お疲れさま。はじめまして」
 急に声をかけられ飛び上がってから、慌てて彼は頭を下げた。
「こ、これは失礼しました。はじめまして、イーガスと申します」
 逆方向から周って仕事をしていたらしい。一心不乱に庭木をいじっていたらしく、イーガスは声をかけられるまでまったく気がついていなかったようだった。
 しゃちほこばった姿は、直立不動である。常に頑ななまでに控えめで礼儀正しい彼は、陽気で人懐こい――悪く言えばけじめに欠けた使用人たちの中にいると恐ろしく目立たない。
 近頃では、イーガスさんを見習いなさい、と女官長の口癖にもなっているほどだった。
「どうぞ気楽に」
 言われたイーガスは、かしこまってリンディに挨拶を送った。いつまでも隠れているというわけにもいかず、おずおずと前に出てイーガスに挨拶を返す。
 目を落として、長く伸び始めた影をなぞってしまう……あれほど顔や態度に出さないように、と思っていたのに。
 緊張して身を硬くしているリンディの肩に手を置いて、リオヴェルトが微笑した。置かれた手の暖かさと重みに、思わずほっとする。
「ダスト子爵にはお世話になったことがあってね、見事な庭だった。出身地はサウラでもブランシュ・アルトでもないようだね」
 さりげない調子で、イーガスとダスト子爵との接点をリオヴェルトは尋ねた。子爵は領地を持たない貴族だ。
 リンディは目を丸くする。洗練された礼が身についているので、サウラの前は王都にいたのだとばかり思っていた。
「ブートのお屋敷で働いておりましたところ、子爵様にご評価頂きました」
「そうか、ダスト子爵の義兄がブートの領主だったね。サウラとは感じが違うが、あそこも緑の美しい土地だ」
 故郷を誉められたのが嬉しかったのだろう、生真面目そうな痩せた頬がやや緩む。
「行かれたことがおありですか」
 昔だけどね、と答え、リオヴェルトはどこか懐かしむように目を伏せた。
 リンディは、サウラとブランシュ・アルトの限られた範囲しか知らない。会話を聞きながら、頭の中に地図を思い浮かべる。
 ブート。サウラとは王都を挟んで反対側、北寄りの東にあるトウイ川上流を囲んだ領地だ。山の近くで高度もあるはずだから、ここよりずっと涼しい気候だろう。
「サウラの方々はいい人ばかりなんですが、私は昔からどうも人づきあいに向いていないようでして。このように、植物を相手にしていた方が気が楽です」
 恥ずかしそうにもごもごと呟くイーガスに、リオヴェルトは首を振ってみせる。
「いや、見事だよ」
 指差した先にあるのは、しなった枝に小花を散らせ始めた低木の群生。湿り始めた涼しい風にそよぎ、かすかな芳香を漂わせている。
 声をかけた時に集中して手入れしていたものだ。
 直に金色の房のような見事な満開を見せてくれるに違いなかった。
 蘭匂枝の手入れは難しい。水をやりすぎず絶やしすぎず、枝を増やしすぎず減らしすぎず。木々の間隔も、狭めすぎても広く取りすぎても悪くなる。
 体を壊して故郷に帰った先代の庭師も丹精込めて育てていた。
「ありがとうございます」
 顔を輝かせつつ、イーガスは深々と頭を下げた。
「邪魔をして悪かったね」
 と残して、リオヴェルトはリンディの肩を抱いたまま歩き始め――すれ違ってから、ふと思いついたようにひょいと首だけ振り向かせた。
「ブレノス皇国に縁が?」
「おや、お分かりですか」
 後ろが見えないリンディには庭師の表情はわからなかったが、声からすると相当驚いているようだった。リオヴェルトは他意のなさそうな気軽な口調で応じている。
「あっちには親戚がいるからね。それでも、もしかしてと思う程度だよ」
「母方の家系がブレノス出身で。何代も前からロヴァニアに移住しているのですが、発音だけが微妙に伝わるらしく、代々受け継がれています」
「ああ、なるほど」
 ロヴァニアの東隣に位置するブレノス皇国。資源豊かな山脈を数多く抱える産業国家として大陸一の規模を誇る大国だ。古来より王家と皇家の間には何度も血縁が結ばれ、長らく友好な関係を築いていた。
「ちょっと喋りすぎたかな。ああいうのはファーンの方が得意なんだ」
 頭上から独り言が降りてくる。……少なくとも、変化を感じることはなかった。
 肩に置かれたやさしい感触にさえ。
「サウラ、いや、ロヴァニア的ではないから、かな」
 庭師の姿が完全に遠くなると、手が離れた。
 肩に風が触れる。途端に感じた寂しさに気を取られ、唐突な物言いが示す意味も掴みそびれた。変わらずものやわらかな声で、リオヴェルトは疑問を解く。
「イーガス。知らなくても、発音と雰囲気で違和感を受けていたんじゃないかな。きみは敏感だから」
 思いも寄らない答えを簡単に差し出されて、戸惑いが先立つ。
 また顔に出ていたのだろう、リオヴェルトは苦笑めいた笑みを口元に刻んだ。
「そのうち慣れるよ。アベルは言っていなかった?」
 大きく息を吸い込み、さざ波のように乱れる気持ちを整えて記憶を辿る。
 だれにでも合わない人間はいると言った時。そのうち慣れる、と確かに続いたような気がする。
「ううん。言ってた」
 でも、と言いかけ、リンディは口ごもった。うまく言えなくて、途切れてしまった言葉。代わりに、もらった言葉を胸の内で慎重に反芻してみる。暗示のように。
 ――そのうち慣れる。
「大丈夫」
 力強く断定して、気遣うように背をかがめ視線を合わせて。
「それはわからない不安だからね」
 わかっている時の不安よりはずっといいよ、と言って穏やかに彼は笑った。
 その目が遠く揺らいで見えたのは、寂しげに傾いていく濃い光のせいだっただろうか。




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