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 シ・ア・ランスは、王都ブランシュ・アルトの全貌を見渡せる小高い丘の上にある。前に壮麗な庭、背後に深い森を控えた建物の白と青はいっそう美しく映え、派手ではないがその伝統に相応しい風格と威厳を備えていた。
 ロヴァニア自慢の王宮である。


 その朝、ロヴァニア王国宰相、モーラン・エル・オード伯爵は王宮の正面で歓迎せざる来客を待っていた。ひょろりとした痩躯に細面、一見軟弱に見える印象を眼鏡の奥の頑強な眼差しが覆す。
 壮齢の貴人の脇を、行き交う者たちはそそくさと通り過ぎていった。
 最初はぎょっと目を見開き、歩調を乱す。慌てて顔を伏せ、驚きと好奇の視線を隠す。見事に同じ反応を見せるのだった。
 鬱陶しいこと甚だしい。適当な者を睨みつけでもすれば静かになるだろうか、などと不穏なことを考え始めた時、変化が訪れた。
 かすかだった蹄の音が、やがて地面を伝って力強く響く。次第に大きくなる馬の影。
 ざわり、と周囲の空気が揺れたが、宰相は微動だにせずまっすぐにそれを見つめていた。次第に増えていく人だかりを抜けて間に身を滑り込ませようと動いた者には、片手を上げて制止の意を伝える。
 宮中にまで駆け込むような勢いで広い庭を突っ切ってきた馬は、その正面でぴたりと停まった。
 奇抜な登場を見せた馬上の主は、注目の中、流れるような身のこなしで地面に下りる。馬の首筋を軽く叩き、何事かを囁いたようだった。
 被っていたフードを外す。こぼれる蜜色の髪。騒ぎなどまるで意に介せず、笑みを含んだ青い瞳が宰相の姿を捉えた。
 この異様な光景には場違いなほどのおっとりとした美声が紡がれる。
「お久しぶりですね、宰相。息災のご様子、なによりです」
 アベリュスト・エル・ディアス。不審極まりない来訪者がディアスの当主であることを確認すると、再び群集にざわめきの波が広がった。
「ご苦労。貴殿こそお変わりないご様子でなによりですな、ディアス侯爵」
 やはり周囲の騒動を綺麗に無視しつつ、お変わりない、の部分を微妙に強調し宰相は礼を返した。
 けっして鈍い男ではない。微笑と苦笑の中間のような笑顔を浮かべ、アベリュストは至極優雅に会釈してみせた。
「恐れ入ります」
「さぞかしお疲れのことでしょう。まずは休息を」
 宰相の言葉で我に返ったように動いた宮廷人に馬とマントと微笑を渡してから、アベリュストは答える。
「お心遣い感謝致します。ですが、すぐにでも陛下にお目通りを願いたく。お取り計らい願えませんでしょうか」
 みっともない姿のままで申し訳ありませんが、と付け加える彼は、旅の直後とはとても思えないような整った風体だ。疲れも汚れも見せず、この場にいる誰よりも気高いようなその容貌。
 宰相は小さく頷き、踵を返す。眼鏡がきらりと反射した。
「……陛下は小トテイアでお待ちです。どうぞ」
 王の間、ではない。シ・ア・ランスの本宮でさえない。王宮裏、森の中に置かれた別邸の名を宰相が告げた時、三度群集からどよめきが上がった。この非常識な朝の中で一番大きな動揺だったかもしれない。
 それでは皆さんよい一日を、と涼やかな声と共に、背後に続いた気配がある。
 振り向いて確認しなくても、残された者たちの表情まで手に取るようにわかる。宰相は苦々しい溜息を吐いた。
 他のどこでもない、ロヴァニアの要であるシ・ア・ランス王宮の門を許可なく潜り抜けられる人間などいるはずがない。後を追う門兵の気配すらなかった。
 計算された登場。役どころを十分に意識し、より効果的に印象づける立ち振る舞い。それでいてわざとらしさを感じさせない厚顔さ。
 呆れるほどに人を食ったようなその性格は、まったくもってお変わりなく、なのだ。

 アーチと列柱の生み出す多彩なフォルムが目を奪う美しい王宮を抜けて、裏に出る。そこにあるのは小さな庭と噴水と、その先に広がる深い森だけだ。
 どこか神秘の気配がたゆたう裏の庭で憩う者は多くない。時もまだ朝である。人影はすっかり消えていた。
「やはりサウラに似てますね」
 そう呟いたアベリュストの声は、少し嬉しそうだ。
 風が運ぶ乾いた土の匂い。迫りくるような大群の緑。合間に広がる蒼穹。確かに彼の地を思い起こさせる、と宰相は何度か訪れたことのある緑の館を脳裏に浮かべた。
「リオヴェルト・ルイスさまは息災であられますかな?」
 歩調を緩めて振り向くと、苦笑が返される。
「心配性ですね。あなたが彼をお送りしたのは、昨日一昨日のことではありませんか」
「いや、笑いごとではありませんぞ」
 即座に反論し、隣に並んだ青年をじろりと見やる。
「あの方は、どうもご自分の立場を無視した行動をとるのが得意でいらっしゃる。非常事態とはいえ、今回の行動も目に余ります」
「家出好きなんじゃないでしょうか。人使いも荒いですし、とんでもない王さまですね」
「口が過ぎますぞ」
 のほほんとした口調で軽口を叩くアベリュストを咎め、宰相は表情を険しくする。近しい者がこぞって軽々しい態度で接することが、主君の不当な評価に繋がっているのではないのか。
「臣下たる者、御勤め誉にこそあれ。今回の件にしろ、貴殿の方に怪しい節がある。そもそも、影響という観点から申し上げるならば」
「ひどいですね」
 始まった追求が長くなる手前で、アベリュストはやや傷ついたような顔をして口を挟んだ。
「使われているのではなく、巻き込まれてるんです」
 ぶつぶつと不満げに続ける。
「翠月祭の前にサウラを離れる日がくるなどだれが想像できますか。ご先祖も墓の下で驚いていますよ。少々の文句だって言いたくなるというものです。第一その線で行けば、ファーンの方がよほど怪しいではありませんか。彼といる時間の方が長いはずですよ」
 グリークの息子。有能だがどうも勤勉さに欠ける部分があり、さらに言うならめっぽう礼が欠けている。職業柄場と相手を選んでいるつもりかもしれないが、と喉元まで出かかった小言を飲み込み、宰相は唸った。
 どさくさに紛れて年若い青年に疑惑を押しつけているような気がしないでもないが、アベリュストの主張にも頷けるところがある。
「無論、彼にも黄札を貼らせて頂いている」
 黄札とは名が示す通り黄色の札であるが、危険物を取り扱う場合に国が発行する許可証の通称となっている。転じて、取扱注意。
 アベリュストがぷっと吹き出した。
「うまい譬えですね」
「笑いごとじゃない。にも、と申し上げたはずだが」
 声を上げかけて、宰相は会話を中断した。
 庭から森に入る小道の入り口には、兵が二人控えている。揃って拳を胸に当て敬礼をした彼らに、軽く手を振って労を労う。
 引き締めた表情に伸びた背筋、規律正しく職務に忠実かつ熱心で結構なことだ、と宰相は満足しながらその間を通り過ぎようとした。が、よく訓練された兵たちも、隣にいる青年にはさすがに驚愕を抑えきれなかったようだった。
 軽く目を瞠った兵たちに、宰相は眼鏡の奥から厳しい視線を投げる。少々慌てたように、しかし瞬時に表情を消した彼らに、今度は侯爵が笑顔を向けた。
 凪いだ青は底深い。まともに視線を受けて、兵たちは緊張を隠すように姿勢を改めた。
「お疲れさま。怖い上司を持つと大変ですね」
 当の本人は、朗らかに声などかけている。兵たちを動揺させないで頂きたい、と呻き、宰相はその場を後にした。明らかに、早く立ち去った方がよさそうだった。

 道はよく整備されており、両脇を挟むようにして並ぶ木々の手入れも行き届いている。小トテイアに通じる唯一の通路だ。
 しばらくも歩かない内に、こめかみを押さえながら嘆息する。どうも彼を相手にすると調子が乱されて仕方がない。
「……有名人ですから多少は仕方がないですな」
「単なる田舎貴族ですよ。侯爵ですから領地も一つですし、大したことなどありません。そんなに珍しいでしょうか」
「珍しいでしょう」
 即答する。堪えた様子もなく、アベリュストは長い指を口許に当てた。
「ま、出生が出生ですので、いろいろと煩わしいことが多くて」
 くすりと笑った彼の表情に妙な既視感が湧く。宰相は目を瞬かせてそれを追い出すと、一段と色濃くたちこめる緑の空気のせいだと思うことにした。
 むっつりと口を開く。
「貴殿が気にしていたとは、驚きですな」
「面倒ごとは嫌いですね。私生児の爵位継承者など十分胡散臭いでしょうから」
 あっさりと言ってしまうこと自体、「気にしている」から掛け離れているという証拠なのではないかと宰相は思う。自虐的な言葉でも吐くような繊細さでも持ち合わせているならば、まだ可愛げがあるというものを。
 緑の屋根に赤茶けた色の壁を持つ建物が木々の間から見え始めた。森と同化しているかのような小館に目をやりながら、どうにも釈然としないものを胸に押し込んだ。
 常識を重んじる宰相にとって、弁の立つ非常識の塊であるディアス侯爵ほど苦手な相手はいない。逆はどうなのか、訊いてみる気にさえならないのだった。
 投げやりな気分に任せて、一つ用件を伝えることにする。
「それはそうと、侯爵。一つ報告が」
「なんでしょうか」
 おもむろに語調を変えた宰相に、アベリュストは用心深い反応を示した。
 いつどう切り出そうかと、さすがの宰相も悩んでいたことだったのだ。意味なく襟元を正し、わざとらしく咳払いなどしてから、重い口を開く。
「その、イレーネさまがお越しになると昨日連絡がありまして。周遊されながら訪国なさるとのこと、十日ほど後にはシ・ア・ランスにご到着かと」
 麗しきその姿は、海辺に咲き誇る(あで)やかな大輪――当代一、二を争う美姫と謳われる南国の長姫。
 なにを思い浮かべたのか、侯爵は形よい眉を僅かにひそめた。折も折、大きくはみ出た木の枝が暗い陰を落とし、その表情を見えなくする。
 沈黙がしばらく続いた。
 ある意味面倒極まりない問題ではあるが、ここまで深刻になるとは予想外だ。嫌な緊張を自覚しつつ、宰相は自分の考えを述べる。
「期間は十分にあります。適当な理由を見繕って丁重にお断り申し上げるか」
 彼女に通用しそうな適当な理由を見繕う相談のはずだったのだが。
「……いえ」
 緩く頭を振って、珍しくも憂鬱な溜息を彼はついた。いっそう募る危機感を鉄より堅固な自制心で押しとどめ、宰相は平坦な声で先を促す。
「では?」
「リビエラ公国、誇り高くも勇猛な海賊の国でしたね。保護者にお尋ねしてみましょう。ロイド公爵のお力添えを願いたいのですが」
 それがちょうど、館の前だった。
 シ・ア・ランスの敷地内とは思えない。深緑に輝く森は、賢者の樹がこの森にあると見る者に信じさせるような別世界だ。
 ――だからこそ本物の輝きを目にする時、その高貴な存在に圧倒され、言葉を失い頭を垂れるしかないのだろう。
 小トテイア。賢者に呼ばれ本宮を離れた王が滞在する別邸。数々の公表の内真実使用された回数はいかほどなのか。
 素朴な外観の小館は、いささか古びているもののしっかりとした造りをしている。焦茶色をした厚い扉の前まで進むと、アベリュストが振り返った。
 つい先刻貼りつかせていた憂いをどこへ追い払ったのか、いつの間にか青い瞳が笑っている。
「素直な人間にはとても思いつかない構想です。派手な参上に玉座のお守り……その真意は?」
 すらりと伸びた手が、ゆっくりと取っ手を掴む。
「御勤め誉にこそあれ。ですが、これですべての問題が解決しなければ暴れてしまいそうですね」
 最後の物騒な一言に呆気にとられる宰相を残して、蜜色の髪を翻し彼は館内へと身を滑りこませた。数瞬遅れ、宰相は慌てて後を追う。




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