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 萌える緑の背景には、目の覚めるような青空が広がる。日向にいると暑いとさえ感じた。
「翠月は特別な月だ。雨の日は特に注意が必要だよ」
 特別であることの説明をすっ飛ばして、さらりと彼は言う。塔で確認しておくこと、と憎たらしく付け加えて。
 言われた方は振り向くことはおろか、返事も返さない。
 逆らう気はないが、無言でもって不快を表明しておく。およそ四百年にも渡る国の史書をそれも最初から、だれが喜んで読む気になると言うのか。
 こんなところを宰相あたりに見つかったら半日は小言を言われるだろうが、幸いここはシ・ア・ランスではない。
 物好きにも、ファーンは長い間直射日光を半身に浴びていた。窓際に寄せられた小机、花瓶の隣に浅く腰掛けて、外を眺めている。
 しばらく流れた沈黙を、どこかではぜた微かな笑い声がやさしく破った。続いて、独白のような低い呟きが引き締まった口元から漏れる。
「本当に光を弾いてるぞ、あの子」
「恥ずかしすぎないか、その科白」
 間髪を入れず背後から飛んできた声に、ファーンは、別に、と簡潔に返した。
 窓から見渡せる庭には、使用人たちに囲まれた少女の姿がある。なにやら賑やかな様子だ。自分の前にいる時のあの閉ざされたような気配はどこにもなく、彼女は別人のように笑っていた。
 やわらかな日差しから滲み出たような、春に似た少女。言われるまで、なぜ思い至らなかったのか。彼女ほど大樹の寵愛を受けるにふさわしい者はいないだろうに。
 ――だが、二度目にその瞳とぶつかった時、翠の奥に底知れぬ淵を見たように思う。引き込まれそうになって、焦って我に返った。
 なんなのだろう。濃い闇を秘めながら尚清浄に在る華奢な姿。まるで光に吸い寄せられるかのように知らず手を差し伸べたい衝動を感じながら、触れた途端に儚く消えてしまいそうで容易に近づけない。
 それなのに、触れたり触れなかったりといとも簡単にやってのける男がいるのだ。
「お前、どっかおかしいんじゃないのか?」
「ひどい言い草だ」
 やはり即答だったが、否定をするつもりはないらしい。果たして意味をわかっているのかいないのか。
「夜にはなにが?」
 もう一歩踏み込んで聞いてみると、あの子はたまに悪い夢を見るんだよ、とあっさり答えが返ってきた。
「リンディは少し刃物が苦手だ。抜刀するようなことがあれば、可能な範囲で気を配ってやってほしい」
 何でもないような口調で淡々と言われ、ファーンは眉をひそめる。すっきりと整ったその容貌に、僅かだが鋭さが増した。
 刃物を怖がる理由に穏やかなものがあるはずもない。
「……不安定だな」
 少女の姿を薄いカーテンの向こうに追いやってから、ファーンは振り返った。奥の机で書類にペンを走らせているリオヴェルトの頭を目に留めて、ふと思う。
 ロヴァニアでは珍しいその色合いは、遠い北の国から嫁いだ彼の母から受け継いだものだ。似た色を持つ彼女もまた、北方の血を引いているのだろうか。
 窓際を離れ、ファーンは部屋を横切る。歩は大きくその動作は無造作に見えるのに、足音はほとんど立たない。
 ディアス侯爵の執務室は館と同様にしてやはり機能的に造られていた。色彩と装飾を押さえた部屋は広すぎず、仕事をこなすのにちょうどいい。
 そこに、使い勝手のよさそうな飴色の家具を備えている。
 奥の大机の上には、未済と既決と差戻しの三つの書類箱がどんと置かれていた。部屋を囲む大きな本棚には厚い本が隙間なく詰められており、昨日訪れた塔を彷彿とさせてファーンをげんなりさせる。
 昼までには片づけたいと宣告され、朝から執務室に閉じこめられた。かといって、手出しをする気にはならない。
 机の前に立つ。影が落ちた。だが、彼は目も上げない。……嫌なやつだ。
 ファーンは書類が山のように積まれている既決箱の中から適当な束を拾うと、ぞんざいな手つきで捲り始めた。『南ロード街収支報告』と書かれたそれは細かい数字と表が延々と並べられ、所々に朱書きが施されている。まったく興味をそそられない代物だ。
「手伝う気なら、それじゃないよ」
 素気ないが、リオヴェルトがようやく反応を示した。
「熱心だな」
 他人事のように言ってみると、これまた他人事のような言葉が返される。
「自分の仕事でないことには熱心になる傾向があるものだと思う」
 とぼけてかわすのは彼の得意とするところであり、人と場を選ぶので周知されないのが業腹であるが、受けたものを割り増して返すのがさらに得意な奴だと常々ファーンは思っている。が、昨日見た強烈な原型に比べたらまだやわらかい方だということに気がついた。
 仕方がないかと、茶化して言ってやる。戯言には戯言で十分だ。
「やってもいいが、手慣れた奴がいるようだから必要ないだろう。残念だ」
 サウラが特別な地であるということは、シ・ア・ランスを発つ際行き先を告げられた時点で認識している。が、たとえそうであったとしても、統治する上ではあくまで一領地にすぎない。
 国王とはいえ、ここまで地方の施政に精通しているのはおかしいのだ。
 ふいに淀みなく動かしていたペンを止め、リオヴェルトが顔を上げた。
「文句を聞くって言ったんだっけ。どうぞ」
「俺は協力するためについてきたんだよ。それだけは間違えるな」
 皺一つない書類の束を箱に放り込み、ファーンはいっそ軽やかに言って彼を見下ろした。
 言わないということは知る必要がないということだ。おもしろい訳ではないが、それでいいという思いの方が強い。押しても引いても無駄な相手だということもよくわかっていた。
 透明な眼差しは揺らがない。
 まぁいいかと思い始めた時、彼は淡い溜息をついて書類とペンを手放した。
「わかったよ。悪かった。見様見真似というやつさ」
 姿勢を崩し、長い指を組んで軽く膝に乗せる。仕事の続行は諦めたのかもしれない。
「……養女だと言ったよな。見つけたのは十年前か? 微妙な時期だったはずだが」
 手っ取り早く核心をついてみたが、リオヴェルトは動じなかった。先を促す視線は楽しげで、試されているような気にもさせる。ファーンは憮然としながら言葉を続けた。
「戴冠を控えた王子が表から姿を消したことがあった」
「大げさだな。ほんの半年程度だったと思うよ」
「空の王座に世継ぎの失踪のどこが瑣末なんだよ。賢者に呼ばれたと説明して強引に丸め込んだだけだろう」
「使えるものは何でも使えと、厳しく教わったからね」
 かつて行方をくらませた当人は、肩をすくめて微笑した。
「戻るとすぐに即位を果たした。信憑性は高まったはずだけどな」
 組んだ指を解き、机の上に投げ出された書類を未決箱に戻してから肘を置いて、涼やかな表情でリオヴェルトは言った。
「それに、嘘はついていないだろう?」
 こんなに澄んだ瞳をしているのに、心はまったく澄んでいない。
 ファーンは小さく息を吐く。苦々しい思いが胸の底辺でぐるぐると回っているのに笑い出したくなるような、複雑な気分だ。
「ついてるじゃないか」
 言って、行儀悪く机上に腰を乗せる。
「なにが使えるものは何でも使え、だ」
 ――使えるものを何でも使う方針というならば、なぜ《詩》の存在を伏せたのか。
 その瞳のごとく、熱くもなく冷たくもなく、伝説を映し出す透明な媒体。見目はいいが、運と人材に恵まれた凡庸で欲のない国王、というのが統治者としてのロヴァニア現王に対する主だった評価だ。
 彼は《無名の騎士団》に多くを任せ、常に一歩引いたところに自分を置いてきた。結果、ロヴァニアは契約の威力を知らしめることに成功し、人ならざる者の守護を受ける稀有な国と強く認識させることとなる。
 小国は、人の力の及ばない神秘の血筋と絆で護られているのだと。さらに彼らを支える有能な人材が集えば、どのような大国であっても太刀打ちはできないと。
 正式に王位に就いた後も、彼は一切の方針を変えようとはしなかった。だが、ともすればそれは傀儡疑惑の種にもなり得る。際どい選択だ。
 再び弾けた遠い笑い声が風のように通り過ぎて消えた。
 彼女はどのような笑い声をあげるのだろうか。聞いてみたいと思った自分に気づき、ファーンは苦く笑う。
「お前さぁ、存在感は薄いくせにやってることは派手なんだよ。あの子をサウラに預けておきたかったんだろう」
 あるいははぐらかすかと思ったその問いに、リオヴェルトは低く答えた。
「さっききみが言った通りだ」
 静かに移動させた水色の瞳に、降り注ぐ陽光に輝く庭を映し出す。浮かぶ色を隠すかのように、いっそう透明になるその表情。
「物理的な距離は関係ない。常にサウラにいる必要がないのは《詩》も同じのはずなんだ。力などなくても声は届き、思いはそれだけで救いにも支えにもなる。だが、リンディは不安定なんだよ。……賢者も疲れていたからね、緑の館に預けるのが望ましかった」
 そこにはここで切り上げようとする意思があった。
 普段のファーンなら引き下がっただろう。だが、今回ばかりは違った。声には出されない合図を無視しても確認しておきたいことが生じたからだ。
 一瞬逡巡したが、結局言葉を止めることはできなかった。
「で、彼女はそのことに負い目を感じている?」
 穏やかで上品な横顔、その秀眉さえ動かなかったが、間だけがわずかに空いた。
「たぶんね」
 言ってから、彼はゆるやかに目を戻す。透き通った水色と鮮やかな群青の視線がまともにぶつかったが、どちらも引こうとはしない。
 均衡を崩したのは、リオヴェルトの方だった。ふと目元を和らげる。
「言ってなかったことがまだある。リンディには確認した時点で伝えるつもりだ」
 最も近しい記憶、サウラ行きを持ちかけた時の彼の表情が脳裏に甦る。この邪気のなさそうな笑顔ほど警戒心を呼び起こすものはない。
 自らの行いを省みず先を聞くことを放棄したくなったファーンだったが、逃げられるはずもなかった。
「この件、イシュムルが関係している可能性がある」
 一領地の名でも挙げるかのように気安く、彼は告げるのだった。呑気な声がひどくそぐわないその名前を。
 ひやり、と背中に冷たいものが滑り落ちる。諸国を飛び回る間に何度もその存在を感じ、かつ表に出されることのない情報を嫌という程耳にしてきた。
 ――それは、世界の裏に潜み、金と権力を操る黒い集団だ。
 ファーンが無言で表情を厳しくした瞬間、
「という訳で、これ」
 変わらぬ口調で、おもむろに彼は白い封書を差し出した。
「……なんだこれ」
 手紙にしては厚すぎるそれを思わず手に取ったファーンに、リオヴェルトはいたずらっぽく表情を崩す。
「史書の相違点。巻数とページ数は拾ったから、後は自分で確認するように」
 危うく封書を取り落としそうになる。高まる緊張を逸らされ、展開についていき損ねたファーンは唖然とした。次いで渋面を浮かべる。
「お前、大人げないよな」
 前言撤回、やはりあの原型と同じものを持っているだけのことはある、と心の中で毒づいた。十年前の半年間でなにかが強化されたに違いないという確信めいたものさえ芽生えている。
「ああ、塔のどこかに隠しておくんだよ。後々、手抜き好きなだれかの助けにもなるだろう」
 しらじらと言って、彼は再び未決箱に手を伸ばした。そして、書類を机に広げ話も終わりかと思わせておきながら、子供じみた落とし穴を発動させる。
「史実を記録するのはディアスの大事な役目なんだ。イシュムルについての記述もどこかにあるはずだよ」




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