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 後から倍にして返してくださいね、と言い残してアベリュストは昨夕館を発った。
 思考のままに陽が昇る方角に顔を向ける。が、視界に飛び込むのはたった今自分が出てきたサウラの森だ。日の光に縁取られた眩い新緑とは対照的に木々の奥は仄暗く、得体の知れない闇に通じているようにも見える。
 この森を抜けても、サウラは終わらない。王都ブランシュ・アルトがあるのはさらにその向こうだ。
 目を落として、リンディは小さな溜息をついた。と、いきなり複数の気配に囲まれる。
 反射的に庇うように身を抱きしめた少女にはお構いなしで、爽やかな晴天にふさわしいような明るい声がかけられた。
「リンディさま。だめですよ、朝食はちゃんとお食べくださいってあれ程お願いをしていますのに」
 聞き慣れたその声に、リンディの緊張は一瞬にして解ける。ほっと息をついたところへ、次々と声が投げられた。
「森の空気じゃ大きくなれませんぞ。お嬢さまはもっと太ってくださらないと」
「また憂い顔をしてらっしゃいますね。お寂しいんですか?」
 わいわいと賑やかに取り囲むのは、馬丁や料理長や女官といった緑の館の使用人たちだ。森から帰るのを待ちかまえていたらしい。おさぼりが得意で話好きな彼らは、執事と女官長の目を盗んでは気安くリンディに話しかけるのだった。
 ごめんなさい、でも大丈夫、と細い肩を縮ませて少女が謝ると、仕方ないですねぇ、でもお元気ならよかった、お昼はちゃんと食べてくださいよ、と口々に言う。
「ありがとう。……ごめんなさい」
 再度謝りながら頷くのを確認すると、彼らは一様に破顔した。
 ここの住人たちは、どこか少女に甘い。厳しくすると宣言した青年でさえ、食欲がないことをリンディが告げると仕方がなさそうに笑って、昼前には戻っておいで、と言い残し一人で館に戻っていった。早朝の出来事である。
「……それにしても珍しいですよね、王都にお出かけだなんて」
 物思いになど耽っていると簡単に取り残されるのがサウラの鉄の掟だ。気がつけば、すでに次の話題に移っていた。
「リオンさまもいつもよりお早いですからなぁ。他の方をお連れするなんて、驚きましたよ」
「グリーク伯爵さまのご子息だそうで」
 この裏庭で、感心なことに暑い時は日陰、涼しい時は日向にあたる場所にて見計らった彼らに彼女はよく捕まるのだった。半分くらいは「リンディを囲んで情報交換をする会」の趣があると、リンディは思っている。
 すがすがしい青空の下で憚りなく噂話に興じていていいのだろうか、と少し悩むのだが、彼らはといえばまったく気にしていないらしかった。
「あれ、イーガスさんは?」
 どきりとする名を呼んで、クレメンスが周囲を見回した。太い腕で顎を撫でる料理長に、馬丁のクルトがぼそぼそと答える。
「あ、さっき道具箱を持って表の庭へ行きましたよ」
「仕事熱心ですよね、イーガスさん」
 興味なさそうにさらりと流して、年若い女官が話を戻した。
「それでですね、外務官としてご活躍なんだそうですよ」
 紺色の制服の裾を揺らしながら、うきうきと言うのはエリス。
「そうそう。ですのに気さくでいらして、素敵な方ですわ」
 被せるようにして、ミティアが弾んだ声で相槌を打った。このエリスとミティアの女官二人組は年が近いせいか仲がよく、ぱたぱたと動き回りながら軽やかな笑い声を日々館に響かせていた。
 くるくると忙しく変わる表情。健康的な頬の色。いつも元気な彼女たちには清潔な白いエプロンがよく似合う。
「騎士の称号も持ってらっしゃるんですよね」
「いやね、エリス。いずれ《無名の騎士団》の一員になられる方ですもの、当然よ」
「あっ、そう言えば」
「成人と同時に賜ったんですって」
「わぁ、そうなんですか! すごいわ、いつもいろんなことに詳しいですよね。ミティア」
「ふふ、日頃の情報収集活動の成果です」
 驚くべき速さで会話が展開される。とても口を挟む余地はない、というより呆然と聞き入ってしまった。
 知らない情報がたくさん出てきた。……外務官?
 リンディは、昨日会ったばかりの黒ずくめの青年の姿を思い浮かべる。
 少し意外だった。腰に履いた剣。率直な物言いや陽気な表情の奥にある鋭い眼差し。深く考えることなく、彼の父と同じ軍人だと思っていた。
 改めて思い返してみると、確かに人当たりのいいような軽快な空気をまとっていて、そこが不思議な雰囲気を醸し出していたような気もするが、じっくり観察していられるような余裕があれば悩んだりはしていない。
 あの鮮烈な眼差しを受け止めきれなかった自分が、彼のなにをわかると言うのだろう。
「外務官って、知らなかった」
 素直に言うと、信じられない、疎すぎ、さすがお嬢さま、などと彼らの間にざわめきが走った。
 ひどい言われようだが間違ってはいない。
 反応の仕方に迷って、リンディは小さく首を傾げた。さらさらと、揺れる葉擦れよりも清かな音を立ててくせのない髪が肩から零れ落ちる。
「皆さま、いくらリンディさまがかわいらしいからって意地悪してはいけません」
 笑いをこらえながら口を開いたのは、集団から一歩離れたところに立っていた小柄な若い女官だった。
 そう言った本人こそがなんとも愛らしい容貌をしている。くるりと巻いた髪が包む小さな顔、夜明けを映したように煌く大きな瞳が目を惹いた。
颯風(さっぷう)の騎士さまのお噂はご存知……なさそうですね。そうですよね、リンディさまですし」
「フェミナさん、助けになってないです」
 クルトがそのがっしりした体格に似合わずぼそりと呟くのを軽く笑って受け流し、彼女ははきはきとした口調で説明する。
「逆風において順風を呼ぶ、その技風使いの如く。『颯風の騎士』って、こんな田舎にまで名が通るくらい有名な方ですわ。陛下の信も篤く、難しい交渉事には必ずファーンさまをお頼りなさるのだそうです」
 へえ、と改めて感心する一同。リンディは、リオヴェルトが「国を動かす実力者」と言った意味に今さらにして思い至ることになった。

「まぁ、あれですな」
 料理長がせり出たお腹を撫でながら妙に重々しく口を開く。
「お嬢さまが世情に詳しかったら我々が自慢できなくなり、つまらなくなってしまいますからなぁ」
 彼の言葉に、使用人たちはやたらと深く頷いて同意を示した。
 情報を披露する会の間違いだったのだろうか、とリンディは余計なことを考えてしまう。口に出さないのは、以前似たような場面に遭遇した時に思うがままのことをぽろりと口走ってしまい、保護者の悪影響ここに極まれりと女官長にたいそう嘆かれたからである。
 と、頃合いを計ったように、エリスが澄ました表情を作って言った。
「皆さま、お気楽放蕩貴族のリオンさまもお忘れなく」
 いつもの調子だ。にやりとした笑みを口の端に刻み、料理長が続ける。
「うちのご当主だって、一応王家の血族だというのに貫禄ないですからなぁ」
「リオンさまはきっと、アベルさまの近くにいすぎて怠け病を伝染(うつ)されてしまったんですねぇ」
 最後にしみじみとクルトが呟くと、一同は顔を見合わせて示し合わせたように笑った。弾けた笑い声が、雲一つない青空に吸い込まれていく。
 親しみの込められたへそ曲がりな評には、リンディも常に笑いを誘われてしまう。耳に馴染んだ軽口は話題の締めくくりとしてよく使われるものだったが、少なくとも「お気楽」と「貫禄ない」と「怠け病」は当たってると思っている。むしろ面と向かって言ったら喜ばれてしまいそうだ。
 水色の瞳にいたずらっぽい光が輝く様を想像すると、リンディの口元は自然と綻ぶのだった。
「いいわ、黙っててあげる。その代わり、リオンと喧嘩した時には味方になってね」
 もちろんですっ、と、やけに力の入った返事が一斉に返ってきた。
 ほのぼのとした温もりと笑顔の絶えない、大らかで賑やかなサウラの民。この雰囲気を、緑の館の当主は殊の外大事にしていた。
 どれだけ癒されたことだろう、とリンディも思う。偉大なる大樹の所在も笑いの種にしている青年の正体も、危険の兆候も、自分のことも。すべて知らないけれど、とても大切なことはわかっているような彼らに。
 暖かな気持ちはやがてかすかな痛みを呼び起こす。
 ……なにかを知ることは、別のなにかをわからなくするのかもしれない。
(信じているだけで、ただそれだけでいられたとしたら、きっと幸せになれるのに)
 それは強さだと思った。今こうして朗らかに笑う彼らにも、乗り越えてきたなにかがあるはずなのだ。
 ふと、気遣うような眼差しを送ってきたフェミナに気づいて、少女はそよぐ風にも消されてしまいそうな淡い笑みを返した。
 フェミナは昔から敏かった。心の変化を気づかれないようにすることが無理なのだとしたら、心配ないと笑ってみせるしかない。彼女の心配りには、いつも感謝しているから。
「青星花が咲いたのよ。ほら、そこに」
 話題を変えるべく、リンディはほっそりとした指で昨日見つけた花を示す。
 深い緑をした尖った葉。みずみずしい青い花弁が金色の芯を包んでいる。翠月の頃、晶華草が咲き始める前に花開く、小さくて凛々しい春の花だ。アベリュストが好んでいた。
 館に戻って伝えようと思った時に来客の知らせが来て、その後は余裕がなくて伝えられなかった。リンディは少し悔やんでいる。
「おや、春も盛りなんですなぁ」
 木陰にいるとはいえ、暑がりの料理長には効果が薄いらしい。汗が滲み始めた額をハンカチで押さえつつ空を見上げ、冴え冴えとしたその青さに目眩でも起こしたのか慌てて眼を瞬かせた。
「そうですね。リオンさまがいらっしゃると、翠月祭って気がいたしますもの」
 言って軽く頬に手を当てたフェミナに、女官二人が著しい反応を示した。
「翠月祭!」
「もうそんな季節なんですねっ」
 新年から百五十日目、翠月の最後を飾る翠月祭には願いを叶える占いを行う風習があった。その時期にのみ茎を伸ばし葉を広げ、可憐な白い花を結ぶ晶華草で、サウラの女たちは祈りを込めて花の冠を編むのだ。
 エリスもミティアも胸の前で手を組み、目をきらきらと輝かせ、熱い息と共にうわ言のような独白を漏らす。
「今年はなにをお願いしようかしら」
「あぁ、待ち遠しいですわねぇ」
 その迫力は尋常ではない。異様な熱に気圧された他一同が心なし後ずさりをした程だ。
「まだ翠月に入ったばかりよ?」
 言って小首を傾げたリンディをちらりと見てから、現実に戻ってきたミティアは見えない花を探すかのように森の奥に視線を移して微笑んだ。
「あら、あっという間ですよ。楽しみですわ」
 アベルさまのお戻りが間に合うといいですね、と気遣うように付け加えた彼女に、リンディは頷いてみせる。
「うん。ありがとう」
 それは叶わない願いかもしれないと思いながら。
「翠月祭を逃したら、アベルさま、王都で暴れてしまいそうで心配ですものね」
 無邪気そうなフェミナの言葉に、再び場がどっと沸いた。
 頬を撫でていった風にかすかな慈愛の気配を感じて、リンディはそっと頬に手を当てる。声には出さずにひっそりと思念に言葉を乗せた。
(……大丈夫)
 引き返していった風が、きっと彼に伝えてくれるだろう。




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