第4章 颯風
ひどく冷たい指先が瞼に触れた。見てはいけない、とだれかが囁く。
手は力を失い、すぐに離れる。苦しげに乱れる息の合間に搾り出されるかすれた声。
大好きな声を逃してしまう恐怖に追い立てられ、必死で耳を傾けた。
――悪い夢はすぐ終わるから、だから目を閉じていなさい。わたしのかわいい子。
けれど、この目は開かれてしまう。そして見る。紅を帯びて禍々しく輝く金色の悪夢を。
「……っ」
その時、自分はなにを言ったのだろうか。
――浮上する意識。
荒い息は、どうやら自分が発しているものらしかった。
早鐘のように鳴り続ける鼓動も、まるで他人のもののようだ。
気味の悪い浮遊感がまとわりつく。膜でも張られたかのように感覚が遠い。
暗闇……。ここはどこだろう。
ゆっくりと手をあげると、薄ぼんやりとではあるがちゃんと見えた。
身を起こして見回し、窓から一筋の明かりが差し込んでいるのに気づく。ベッドを降り、光を頼りに重い身体を引きずって窓辺に歩み寄る。
ひやりとした空気をいきなり間近に感じ、少し身を震わせてから少女はカーテンを開けた。
窓に現れた月は糸のように細い。冷たくやさしい光が部屋を青白く照らし出した。
遠くを彷徨うかのように覚束なく揺れていた翠の瞳が、確かな輝きを取り戻す――見慣れた部屋を確認して。
ああ、と息をつき、少女はその場に崩れ落ちた。笑顔こそが相応しいような可憐でやさしい顔が、苦悶に歪む。
壁に背を預け膝を抱え、少女は息を潜めて虚空を見つめた。吹き出た汗が体温を奪い体中が冷えていくのを自覚していたが、動く気力がなかった。
――ふふふ。
静寂を破り、どこかで女が笑った。水に濡れた布のようにひたりと絡みつくその声。落ち着きを取り戻していた心臓が再び大きく跳ねる。
同時に、とろり、と生暖かく粘りつくような重いなにかが足に触れた。
闇を孕み紅のような金色のような色をまとって不吉に蠢く、濃い液体にも似て凝ったその影。
逃がさないよ、と言ってそれは足首を掴んだ。
「や……」
少女は恐怖に目を見開いたまま首を振った。唇が震え、声が喉に張りついてうまく出ない。手足がしびれたように鈍く、思うように動かない。
ゆっくりと飲み込もうとするそれに必死で逆らうが、ずるずると引き寄せられていく。
――早く夢から醒めてちょうだい。
「いや……っ」
覆いかぶさる影から少しでも逃れようと、少女は短い悲鳴をあげて頭を抱えた。その時。
「リンディ」
影を切り裂いて穏やかな声が届く。暖かい腕が肩を抱いた。
その手を知っているのにわからなくて、少女はもがく。動きにあわせ、かすかに軋んだ音を立てて床が揺れる。
だが、抑える腕だけはびくともしない。
「リンディ、大丈夫だ」
ただ、言葉だけが場違いなほど静かに繰り返される。大丈夫、と。
やがて、少女の身体から力が抜けた。
……揺れが収まり、初めて自分のいる場所がベッドの上だということに気づく。
「リオン?」
荒い呼吸を整えながら、ようやく声を押し出す。
顔を上げると、まずは淡い金髪が目に入った。地上に舞い降りた月のように輝き、闇を払う清浄さ。一瞬ためらった後、震えの止まらない手で恐る恐る触れてみる。
やわらかい感触は、幻ではないように思えた。
「そう」
頷いた彼に、伸ばした手を捉えられる。冷えた指先に熱を感じてリンディは反射的に手を引いたが、やはり彼は離そうとはしなかった。視線が合わさる。
労わりをこめて注がれる眼差しを、リンディは弱々しく見返した。
懐かしくも見慣れた瞳が、今は遠いのか近いのかわからない。二度目を確かめるのが怖くて、ただ彼を見つめることしかできなかった。
熱を帯びてさえ氷に似ている美しいその瞳を。
(これさえもが夢なのだとしたら……もう二度と目を開くことなんてできない)
不意に、水色の底がわずかに揺れたような気がした。消えてしまうのかもしれないという恐れに鋭く胸を貫かれ息を詰めた瞬間、引き寄せられ、再び腕の中に閉じ込められていた。
「悪い夢を見たんだよ。大丈夫、もう終わったことだ」
言い聞かせるようにして低く言いながら、彼は余った手で長い髪に触れ、梳き始める。汗で肌に張りついた髪を整えながら、何度も何度も。
リンディは強張ったまま身じろぎもせず、しばらくされるがままにしていたが、
「夢……どれが?」
ぽつりと問う。紅か金の影が出てくるやつは全部、と即答が返ってきた。
それなのに、本当に夢なのだろうか、と疑ってしまう自分がいる。
肌に残る生々しい感触。歪んだ気配。あるのは怒りだろうか、憎しみだろうか。さらに奥に見えたのは、あれは――…、
(――だめ。捕まってしまう)
また引きずり込まれるような錯覚を覚え、ぞっとして震えると、広い手が宥めるように背中を叩いた。
そう。どうして撥ね退けようなどと思えたのだろう。この優しい手は確かに彼のものなのに。
震える歯を噛み締めてから、なけなしの勇気を振り絞って再度問う。
「今は夢じゃない?」
「現実だ」
わずかに腕に力を込めて、彼は強い口調で答えた。
「……うん」
大きく息をついて緊張を解くと、リンディは彼に身を預けた。彼の熱が、胸の内に留まる凍えたものを溶かしていく。
でも――まだ怖い。
いつも夢に思えて怖くなる。だからいつも確かめていたいと思うのに、それもできなくて。
どうしようもない愚かな不安に身を浸したまま、怯えながら生きている。
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