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Colors1 - 「Line」番外編




 最近の藤井くんは忙しい。
 九月なので上半期の決算だということもあるけれど、近々担当替えがあるということで、その準備に追われている。今持っている仕事の引継ぎ準備をしながら進め、新しく担当となる予定の仕事の補佐もするらしい。下半期に入ったら完全に移行する、ということだった。
 地域から全国の担当に変わるのだそうだ。藤井くんは慣れるまでの辛抱だと言っていたけれど、今月に入ってからの彼は帰宅時間は遅いし休日はほとんど返上だし、なかなか大変なことになっている。
 一方、同じく半期決算を控えながらも九月に夏期休暇をもらってしまった私は、申し訳ないくらい呑気極まりなく残暑にうだりながら家でごろごろしていた。
 急な話だったけど、不安に思ったのは話を聞いた最初の時だけだ。自分で自分が心配だったのに、それ以来苛々するとか不安になったりとかいうような感情は沸いてこなかった。長い付き合いの中疎遠だったり親密だったりの関係を繰り返してきたので、慣れているということはあるかもしれない。
 改めて新しい関係になったばかりの時期で、思った時に気軽に会えない状況というのは寂しくはあるけれど、ともあれ「大丈夫」の効力が絶大なのだろう。藤井くんは、たとえ数時間でも週に一度は顔を会わせる時間を作ってくれていた。
 ただ、今どうしてるのかな、心配だなぁ、会いたいな、ゆっくりしたいなーとは思う。今週はといえば、土曜日に会うことになっているんだけど、大学の友達で集まるので二人で会うというわけではなかった。
 だから、珍しく夜になってから突然『今から来れないか』と電話が入った時は、考えるまでもなく「行く」と答えていた。夕飯も終わって部屋で氷上のあざらしのごとく転がって本を読んでいただけだったし、明日もお休みだし。
 文句を言われるというわけではないもののそこはかとなく気まずかったりするので、父が帰る前にと急いで支度をする。母には正直に藤井くんのところへ行くと伝えた。みんな藤井くんのことを知っているからか、彼が相手だと大抵の場合は気を許したような雰囲気で返事をしてくれるので、だいぶ気が楽だ。干渉はされないとはいえ、当たり前だけど気を遣ってしまう。
 最近忙しさが増した千明はまだ帰っていなかったので、行かないどくれお前さん攻撃を仕掛けてくるぽかちゃんの頭とお腹をいっぱい撫でて、なだめすかして家を出る。


 顔に似合わず心配性で、彼は夜の一人歩きにはあまりいい顔をしない。気持ちはありがたいけど、毎回送迎付きというのも無理な話だ。それに、駅から藤井くんのマンションまでは徒歩で十分もかからないし、危なそうな道ではない。
 途中で連絡をすると改札まで迎えにきてくれるかもしれないので、駅を出てから電話を入れるという念の入れようだ。携帯電話を取り出すと、もう八時半を回っていた。
「あ、藤井くん?」
『あぁ』
 いつもの少しぶっきらぼうな声が返ってくる。
「今、もう駅だよ」
『どこの』
 藤井くんの、と答えたら、声が渋くなって苦情を言われた。やっぱり、駅で電話して正解だ。次はドアの前からにしてみようか。
「…もう来ちゃったんだもん。あと少しでそっち着くから。ところで、夜ご飯食べた? 何食べた?」
『お前なぁ、勝手に話変えるなよ。炒飯食ったよ。売ってるやつ』
 本日の料理修行は中止…かなぁ。それにしても、売ってるやつ、か。
 基本的に藤井くんは自炊派だ。一皿の炒飯を作る時間も惜しいんだな、と理解する。そして、それでは足りなさそうだ。
「ちょっとコンビニ寄ってくけど、すぐだから待ってて。じゃ、後で」
 どうする?と尋ねるまでもなかった。優柔不断の私でも迷う要素を見出せない。さくっと決めて、電話を切った。
 今日はいつもより暑かったけど、もう九月も後半だ。空気はもう変わっていて、朝晩は過ごしやすくなっている。街灯が浮かぶぬるい夜闇の中、涼しい秋の風を追いかけながら少し急いで歩いた。途中で寄り道したコンビニでサンドイッチやサラダ、ヨーグルトなどを適当に仕入れて、藤井くんの部屋に着く。
 ピンポンと鳴らすと、程なくドアが開いてぬっと長身の影が現れた。
 見上げた目に飛び込んできたのは、相も変わらずワンパターンの白無地Tシャツとジーンズ姿。愛想のない顔になんだかほっとしたような笑顔を浮かべらると、たったそれだけでどうにも照れてしまう。
 ていうか、顔をあわせて気がついた。上の色を何色にするのか、自分がジーンズの時は絶対に訊くの鉄則…慌ててたからすっかり忘れてた。
 誰でも着るような組み合わせでも、二人並ぶとペアルックになってしまうのだ。まったくの無地ではないとはいえ、私も白のTシャツにジーンズ姿だった。
「どうも」
「どうも」
 よくわからない挨拶を短く交わす。恋人同士の会話にはとても聞こえないけど、傍目にはそうは見えないかもしれない彼のやわらかな表情は変わらなかったから、たぶんいいのだ。最近開き直った。
 部屋にはゆるく空調がかかっている。そして、いつものごとくテレビがついていた。
 美人女将湯けむり紀行!全国グルメ温泉旅館完全保存版、だそうだ。よほどのんびり休みたいんだろうかと、なんとなく切実な願望を感じなくもない。まぁ、それは置いといて。
 テレビとは別方向を五秒ほど眺めた後、私は彼を仰いだ。
「えーと、忙しそうに見えるんだけど」
「忙しいよ」
 あっさりと短いお返事が返ってくる。そこは一応否定するところなのでは…じゃなくて。どう見てもお邪魔なんじゃないかなと思ってしまうんだけど。
 ノートパソコンの周囲には資料らしきものが散乱していて、どう見てもただ今作業中といった状態なのだ。テレビっ子な藤井くんが、テレビをつけながら作業をするのは学生の時から変わっていないようだった。懐かしいけど。
「これ、仕事だよね?」
「あぁ、手伝えって話じゃないから。適当にテレビでも見ててくれ」
「集中できなくない?」
「だったら呼ばねぇよ。いいから、いて。会社でやりたくねー」
 最後の方は、心底うんざりしたような響きになっている。心の叫びを聞いてしまった。会社いやいや病にかかりかけているのかもしれない。それも重症の気配だ。
 家だろうが藤井くんの部屋だろうがうだうだする分には同じだから、その点だけに絞るならとくに問題はない。でも集中して仕事を片付けるのに、何もしないでだらりと気楽に寛いでいる他人が傍にいたら、やる気を失くすというか気が散るような気がしませんか。
 さらに言えば、その何もできないというのがいかにも無力で情けない気にさせられる。困った。
「だって、いてもどうすることもできないし、邪魔なだけだし…」
 分類関係なく適当に並べられてる本棚とは違って、一見思うがままに散らばっているように見えて実は秩序を持っているようにも見える。それら資料群を横目にぼそぼそと呟いてみた。と、藤井くんの声が低くなった。
「落ち着くんだよ。どうもしなくていい。呼び出しておいて悪いけど、眠くなったら寝てていいから」
 意志の強そうな黒い眼にまっすぐに見つめられて、どくっと心臓が跳ねる。
 …ちょっと、軽く目眩がするんですけど。
 身の置き所がないんだけど、とか、寛げなさそうなんだけど、とか、言いたかった文句は掃除機に吸い込まれる塵のごとく掻き消えてしまった。
 照れた様子は全然なくて、合わせた視線を逸らせないくらい真剣な顔をしている。真面目に言ってるみたいだから当然か、というより性質が悪い。この人、凶悪。さすが悪代官様だ。
 全然甘くない雰囲気で、不意打ちで、灼きつくように沁みる言葉を投げてくる。
 もう友達じゃない。付き合うことになった私たちがどう変わったのか、うまく説明することはできない、と妙ちゃんには伝えた。
 たとえば、私と藤井くんを繋ぐ線がこんな風に特別な意味を持つところにまで伸びてきたと言えばいいのか、線はそのままに恋愛の色を含むようになったと言えばいいのか。…あぁ駄目だ。訳わかんない。にわとりと卵問答のループに嵌っているような感覚に陥ってきた。
 ただ、根本の部分で変わってしまったからこそ変わらないものを探してしまうのかなとは思う。
 黙って考え事をしていたら、藤井くんが吐息をもらした。
「怒るなよ」
 勝手言うなよと思う反面、嬉しかったりもするのだ。こんな本気の頼みごと、とてもじゃないけど断りきれるわけがない。
「怒ってないよ。コンビニで雑誌でも買ってくる。十分で戻るからね」
 よきに計らってあげることにした。ついでに、くらくらする頭も冷やしてこようと思う。


 さすがに照れくさそうな苦笑を覗かせたくせに、気分転換と言ってついてくる。結局同じような格好の二人が連れ立って歩くことになった。ペアルックもどきで歩くのは恥ずかしいけど、仕方がないか。
 完全に紛れるというわけにはいかないけど、夜道で他人のファッションチェックをするようなお洒落第一主義者なんてそうはいないだろう。たぶん、いないはず。白Tシャツにジーンズなんて、「おにぎりの具は梅」みたいなシンプルかつ不変の王道的組み合わせなんだし。と胸の中で唱えながら乗り切ろう。
 ファッション雑誌を買ってそそくさとコンビニを出てからは、ゆっくりと道を戻った。冷房の効いたコンビニから出ると、解凍されたような気になる。
 お互いまったりした気分だと会話も少なくなるのが私たちだ。あってもいいけど、なくてもいい。そんな空気が心地いい。
 などと思っていると、突然頭上から声が降ってきた。
「なんでそんなに離れてんの?」
「え?」
 びっくりして隣を見る。見えるのは、彼のがっしりとした肩というか腕というか。間には一筋、いや二、三筋ほど隙間があった。決して遠くはないと思う。そのまま視線を上げると、眉を寄せた藤井くんが見えた。本気で機嫌を損ねているというほどではないものの、少々むっとした顔になっている。
 デフォルトで怖い系なんだから、やさしい表情を心がけてくれないかなぁ。日も沈んでることだし。
「なんでって…」
 口ごもる。理由なんてないので、そんなことを訊かれても困るよ。強いて言うなら習慣だ。長い間、この距離だったんだもん。
 結局黙ったまま、そうっと半歩近寄ってみる。目標を誤って、軽く肩がぶつかってしまった。触れた肌から温もりが伝わる。晩夏と初秋の境目に漂っている、気の抜けたようなだるい温度とは全然違う。
 この確かな温かさはいつも私をドキドキさせ、混乱させるくせに深いところではほっとさせてくれるのだ。
「理由、別にないよ」
 寄り添ったままぽそりと正直に答えると、とりあえずそれで満足したのか、藤井くんがふっと目元を緩めた。一度頭を撫でられる。と思ったら、あっという間に顔が近づいてきた。
 そっと覆うようにして唇が触れる。
 やさしい感触に一瞬ぼうっとしかけて、すぐに我に返った。道の真ん中で何てことするんだ。見たくもないのに目に入っちゃった人がいたら申し訳ないとは思わないのか、こら。
 こんなとこで浸れるか、バカ!
 けど、身を引こうとしても頭を支える手が許してくれなくて、もがいてもどうしようもない。やさしいくせに強い力で押さえ込まれて彼を感じていると、次第に抗えなくなっていった。
「…んっ……、はぁ」
 激しさを含む一歩手前で解放される。離れた際に触れた息の熱さに、血液が逆流しそうになった。
「なっ、なんで、…こんなとこで!」
「急にしたくなったから。バカだな、訳なんてあるか。…安心しろよ、誰もいないよ」
 乱れた呼吸にも構っていられない。動揺としがみつきかけてた手をごまかすべく睨み上げたら、肩をすくめた彼にさらりと流された。憎らしいことに、相手は息も上がっていない。
 なんで極まっとうなことを言っている私の方がバカって言われなきゃならないんだ。
 こんなにむっとしてるというのに、藤井くんの顔はますますやさしくなる。何それ。勝手に反比例すんな。
「どっちがバカだ」
 せっかく頭を冷やそうとしたのに。こんなの見てたら、こっちの顔がまたおかしくなってくるじゃない。俯いて悔し紛れに呟くと、声を抑えて笑う気配を感じた。
 私は小さく息をつく。ほんと、性質が悪い。怒る気なんてふわふわっと体から抜けて、屋根の辺りでぱちんと消えてしまう。
「帰るか」
「…うん」
 隙間のない距離で肩を並べ、再びゆっくりと歩き出す。私は、濃い影の合間に見え隠れする薄い二つの影をひたすら眺めていた。だけど、下を向いていても、和んだ視線がこちらに向いていることは感じられるのだ。
 全身を包み込まれているようで、安心して余分な力が抜けるような気がする。さっきは困らされたけど、忙しい日が続いたって少しでもこんな時間を持てたら、きっと寂しさだって我慢できる。
「もうケーキ屋は閉まってるな」
 ふいに、ぽつりと藤井くんが呟いた。同じことを思い出してたんだ。あの時は夏真っ最中でもっと暑かったし、青っぽい夕闇だったし、もっと離れていたし、お互い全然違うことを考えていたのだけれども。
「うん」
 ずっと一緒にいられたらいいな。たぶん、積み重なっていく思い出が増えれば増えるほど満たされていく。中には痛いものもあるけど、たくさんのやさしさに溶けていくから大丈夫。全部が大切。
 だから、彼にとってもそうであればいいな、と思う。

「でも、今日はいいよね」
「そうだな」
 言って、目を合わせて笑いあった。



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