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L i n e





 暇な夏季とはいえ、月末はそれなりに忙しくなる。というか、真夏にこんなに忙しいことはなかったように思う。ありがたいけど、ありがたくない。
 …いや、やっぱりありがたいかも。考える余裕もなく、毎日が飛ぶように過ぎていくのは。
 狭い社内は、今日も朝から慌しかった。瞬く間に時間は過ぎていき、就業時間が終わる。裏電に切り替えた瞬間を見計らったように電話が鳴ったので、ちょっとびっくりしながら取った。
 のんびりした社風の我が社にはそぐわない殺気を発している沢村さんに視線を移し、私は一度だけ息を呑む。キーボードを叩く音が攻撃的だ。
「…あの、沢村さん、今いい? 後藤くんから電話入ってるんだけど」
 呼んだ当人より先に、事務の後輩である小宮さんが反応した。あちゃー、と顔をしかめている。それを横目で見ながら告げた。
「三番です」
「あ、本当? ありがとう」
 予想に反してまろやかな声が返ってきた。笑顔も麗しい。けど、怖い。社内はクーラーが緩く効いているけれど、彼女の周囲だけはキンキンに冷えた空気が流れている。
 季節外れの雪女ですかと突っ込みたくなるくらいだ。
 受話器を取って内線を押した瞬間、彼女の目は三角になる。
「もしもし?」
 声色も変わった。…冷たい。今、彼女の周囲には窒素しかないかもしれない。手を近づけたら指が凍るって絶対。
 あのぅ、沢村さんいますか、と泣きそうな声で聞いてきた後藤くんの気持ちもよくわかる。
「…はぁ? とにかく、早く帰ってきて……は? …えぇ、よろしくお願いします。それでは」
 機械的な返事で短くすませて、受話器を置く。それから腕を組み、早く帰ってこいっつの、このスットコドッコイと、鼻息も荒く吐き捨てた。正直、今時スットコドッコイはどうかと思う。
 かわいいお顔をしているのに妙に貫禄がある上におっさん臭い。唯一の同期で五年以上も一緒に働いているけど、いまいち掴みきれない人だ。
「遅くなりそうなの?」
 電話を引き継いだ責任、なんてものはないけど、とりあえず聞いてみる。そして、まぁね、と頷いた沢村さんを見て後悔した。後藤くんが週末を無事に迎えられるよう祈らずにはいられない。
 彼女は後藤くんがもってくるはずの書類を午前中から待っていた。残業が延びそうだなぁ。思って、ちょうどいいので付き合うことにする。
 週初めは調子が悪くて定時で帰らせてもらってたし、頑張った分だけ来週の月曜日が楽になるし。
 それに…約束した時間は八時だ。


 結局、後藤くんが帰社した時には六時半を過ぎていた。
 魔王に狙われた可憐な姫君のようにびくびくしながら事務島――営業系と事務系とで机が分かれているのでそう呼ばれている――にやってきた後藤くんは、沢村さんの目を思い出してきっと今夜はうなされるに違いない。その場にいた全員が、ご愁傷様、といった顔で見ていた。堂々と見るのは怖いので、こっそりと。
 それっとばかりに力を併せて処理をする。帰ったばかりで疲れているだろう後藤くんも一緒に。ていうか、風にも折れそうな風情で耐え忍ぶ乙女のようになっている彼を見ていたら、あまりに不憫すぎて涙を誘われるというものだ。
「はーい、お疲れー」
 作業は一時間ほどで終わる。沢村さんから殺気も消えた。
 ジュースおごります、という後藤くんの申し出を丁重に断り、先に失礼して更衣室に入る。とはいっても、私服だから着替える必要はないのでロッカーからバッグを取り出すだけだ。
 ふと携帯を見ると、メールが二通届いていた。ぎょっとする。…うわっ、しまった。忘れてた。
 誰かが聞くというわけでもないと思うけど、私は会社、というよりこのビル内で携帯を使ったことがない。慌てて会社を出て、エレベーターで降りた。


 外は、嫌な感じにぬるい。
 梅雨が明けたばかり、七月最後の金曜日。朝から天気予報関係各位を失意のどん底に突き落とすような天気だった。すなわち、どしゃぶり。
 日中よりは雨の勢いは弱まったみたいだけど、やっぱりスカートにすればよかったかなぁ。
 思いつつ、速攻地下に入る。週末だから人通りは多い。クーラーは効いているけれど、人の熱にあてられた湿気がたちこめて、新鮮な酸素を熱望するほど息苦しい空気に満ちていた。ちょっと咳き込んでしまう。
 歩きながら電話ができるような器用さは持ち合わせていないし、知らない人の中で電話するのは恥ずかしいので、端に寄って携帯電話を取り出した。
 まずメールを送ってから、次に電話をかける。すぐに繋がった。
「あっ、あの、藤井くん? えっと、三崎です。ごめん、ちょっと残業長引いちゃった」
『忘れてたろ』
 焦るあまりつっかえながら話すと、テンションの低い無愛想な声が短く返ってくる。とくに怒ってるというわけでもない。普段から愛想がない人なのだ。
「うん、ごめん…妙ちゃんからもメールきてたから、今送り返したところ」
 しゅんとして声を落とす。仕事が忙しかっただけでなく、別の約束にばかり気を取られてた。
 金曜日の夜は久々に外食に連れてってもらうんだと嬉しそうに妙ちゃんが言ってたから、お昼休みに連絡する予定だったのに。
『ま、暇なやつが暇な時に連絡すればいいだけだ。原からはこっちに連絡がきているから気にすんな。昼飯は原の家で食うことになったから、お前の家には十時半頃に着く』
 藤井くんは、あっさりと流して本題に切り替える。明日は、大学時代の共通の友達で、多忙な夫と一歳の子どもを抱えて育児ストレスを溜めているらしい旧姓原、現在西田妙子ちゃんの家に二人で遊びに行く予定になっていた。んだけど。
 慌てて首を振る。見えてないというのに、電話する時はもれなくリアクションがついてしまう。端から見てたら、さぞかし滑稽な光景に違いない。
「え、私の家? いいよ、途中で拾ってくれれば」
『車だし、手間もかからねぇよ。じゃ、明日。寝坊しとけ』
 反論する隙を与えずに、素気なく電話は切れた。…寝坊しとけ、か。藤井くんらしい言い方に少し和む。
 けど、ぷち、と電話を切り、表示された時刻を見てすぐに我に変えった。


 けっこう急いだので、約束した時間の十分くらい前についた。ほっとしながら狭い本屋さんに入る。瞬間、先にいるのを見つけてびっくりした。
 時間前に到着しないと落ち着かないような忙しない私とは違って、彼はほぼ時間ぴったりにくる人だからだ。生真面目というよりは時間計算とかが上手というか、とにかく何事にも要領のいい人なのだ。
 少しだけ、足が止まってしまったけれど。
「…須藤さん」
 息を吸い込んでから、声をかける。新書コーナーで小説を立ち読みしていた須藤さんは、顔を上げて私を認めると、にこっと爽やかな笑みを浮かべた。夏の暑苦しさも吹っ飛んでしまいそうな笑顔だ。ごく自然に、いつもどおりの。
 前、あと少しで歯磨きのコマーシャルにでも出られそうな、こう、胡散臭さ一歩手前で踏みとどまっているような、近年稀に見る明朗好青年といった感じ、と説明したら妹の千明に呆れられたっけ…。
 どうでもいいことばかりが頭に浮かぶ。何となく言葉が詰まってしまって二の句が紡げないでいる私に、須藤さんは屈託なく話しかけた。
「あ、千佳ちゃん。早いね」
 早いのは須藤さんの方じゃないかなと思いつつ、目を伏せながら、いえ、と返事をする。本を棚に戻しながら、須藤さんは苦笑した。
「汗が出てるよ。そんなに急がなくても置いていかないから、ゆっくり来ればいい」
「うぁ」
 慌てて額に手をやる。なんてわかりやすいんだ自分。今日は本当にいつもどおりにしたかったから、遅刻は絶対できないと思ったんだ…。
「じゃ、行くか」
「…はい」
 溜息をついて、須藤さんの後に続く。相変わらずの人波の中を見失わないよう追っていたら、急に振り向いた彼に手を取られた。一瞬びくっとして体が固くなってしまったけど、でもすぐに力を抜いて素直に任せる。


 三つ年上の須藤克哉さんとは、もう一年近く付き合っていた。
 人数合わせのために強引に頼まれて出たコンパでたまたま、という極々平凡な出会いで。割と喋るのに軽い印象を与えない変わった人だなぁ、というのが第一印象だった。
 以前信じた人に裏切られたという、ありきたりかつヘタレこの上ない理由で私は男の人が軽く苦手だったのだけれど、須藤さんのやさしさに心を解されていった。いつも申し訳なるくらいに気を遣ってくれて、私を大事に思ってくれることがわかって嬉しかった。
 もらった暖かいものを、何か少しでもこの人に返すことができたらいいなって思った。

 …なのに今、こうしておかしくなってしまったのは、たぶんじゃなくても私が悪いんだと思う。



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