back/ site top/ next




 すぐ近くにあった洋風居酒屋に入る。週末だから混んでいたけど、二人席がちょうど空いていたので待つこともなかった。
 お店全体が白と木調ベースな小綺麗でおしゃれっぽい雰囲気だった。前期が終わった頃なのかなぁ、と元気に盛り上がる学生たちを横目に席に着く。賑やかなのに騒がしくない空気というか。
 …人が多い気配に安心を覚えていたりも、する。そしてその後に残る、罪悪感みたいなものと。
「えっと、ここ、流行ってるんですね」
「雑誌でも取り上げられているらしい」
 言いながら、須藤さんはメニューを開いた。決めるのが苦手な私は、眺めながらうーんと唸る。さらに、正直言うと食欲があまりない。
 自分で自分を急かしつつ、軽くて口当たりのよさそうなもので、須藤さんが好きそうなものを数種類あげてみた。それに幾つかプラスして、須藤さんが注文をしてくれる。
 メニューを店員に預けながら、にこりと笑いかけてきた。
「今日明日は車出勤だからね。家まで送っていく」
 車。内心の怯みを隠すべく、私は微妙に話題を逸らしてしまった。
「え、前に言ってた用事って仕事のことだったんですか。忙しいんですか?」
「いや、仕事の方は急な用件。縁側で猫と日向ぼっこできるほど暇なんだが、たまたまだよ」
 あまり気づいていないようで、須藤さんはあっさりと首を振る。
 日向ぼっこって、彼の職場は今どんな状態になってるんだろう。想像できない。まぁ営業マンだから、つきあいで土曜日に呼び出されることはあるかもしれないけど。
 飲み物はすぐにきた。やたらイケてる茶髪のお兄さんが、須藤さんの前にノンアルコールビール、お酒が飲めない私の前にはウーロン茶を置いていく。
 アルコールがないビールってどうなんだろう。アルコールNGの私でも飲めるものなのかな。千春ちゃんがドイツで飲んだことがあるって言ってたけど、実際どうなんだ。
 試したいようなみたくないような、ある意味不思議系の飲食物だ…。いや、ここまで反応されてもノンアルコールビールだって困るだろうけど。
「二人連れは穴場なんだが、三人以上だと予約が無難だろうなぁ。結婚式の二次会も受けてるらしいね。雰囲気と飲み物の種類が豊富なのがいいな」
 よく冷えてコップに水滴を作っているビールを三分の一ほど飲み干してから、須藤さんが教えてくれた。どこから仕入れてくるのかはわからないけど、須藤さんは裏道を知り尽くしているタクシーの運転手並に情報通だ。
 サラダと軟骨の唐揚げが運ばれてくる。
 へえぇと頷きながら、取り分けた大根サラダを口にした。梅風味のドレッシングがさっぱりしていて、太めに切られた大根は冷たくてしゃきしゃきしていた。
「おいしい」
「どんどん食べなさい。もっと身につくものを食べた方がいいかな」
 学校の先生かお父さん、というよりお母さんみたいなことを言う。思わず笑ってしまうと、須藤さんもなんだか嬉しそうににこにこと笑った。よかった、ほのぼのだ。
 …食べ物の話題は尽きなくていいな。頭の隅で、ついそう思ってしまう自分がいる。
「千佳ちゃんは今日も残業だったんだろう?」
「えっ、あ、はい。なかなか書類を持ってきてくれない営業さんがいて、同期の子の目が三角になってました」
「それは怖そうだな」
 何か思い当たるところがあるんですか、と思わせるような微妙な顔で須藤さんは相槌を打つ。
「いや、うちの事務ははっきりしている子が多いからなぁ。暇な時だから社内にいるがけっこうキツい…癒し系がほしいよ」
「もしかしたら、職場を離れたら癒し系かも」
「はは、ちょっと想像できないな」
 須藤さんは軽く笑っているけど、私はちょっと引っかかってしまう。
 彼の会社はけっこう大きな組織だからなのか、いつも忙しくてみんなが余裕がなくて常にぴりぴりしているような印象を抱いていた。
 実は千明もそんな感じの会社で働いていて、よく帰りが遅くなる。話を聞いてて、似てるなぁと思っていたんだけども。
 アットホームだけにもっさりとした雰囲気のうちの会社とはまるで違っていて、面食らうことがある。中小企業と大企業の違いというのもあると思う。
 そして同じ事務畑だからか、須藤さんから事務の女の子の話を聞いていても、一所懸命なんだなと思って気の毒に思うことが時々あった。
「そういえば取引先がミスをしていて、普通ならすごい勢いで突っ込んできそうなのにうちの子は黙って引き受けていたんだよな。最初はうちのミスかと思って冷や汗かいたよ」
「え、でもそれって」
 何だか痛い感じがして、無意識にその先を止めている。
 …傷ついてないといいけど。そういうの、ミスしたところが言ってくれるのを信じてちゃいけないのかな。しばらく無言で考え込んでいたけど、すぐにはっとした。
 重く受け止めすぎだ。しかもだいぶ妄想入ってるし。
「えっと、それで車なんですか?」
 慌てて付け加えると、ジョッキの中身を飲み干してから須藤さんは微笑した。安堵から、私も笑い返す。やばかった、雰囲気がおかしくなるところだった。
「勘がいいね。今日は取引先に直行で、明日は途中で事務の子を拾わなきゃいけないからさ」
「大変ですね…」
「まぁ、仕方がないよ」
 休日が潰れるというのに愚痴一つこぼさない。そっか、万が一傷ついても須藤さんみたいな営業さんだと気持ち的に救われるかも。むしろ須藤さんが癒し系だったりして。
 須藤さんの笑顔を見ながら、この人はビールのコマーシャルにも出られそうだなと思う。

 その後は気になっていたノンアルコールビールの話になり、二杯目を頼んだ須藤さんから試しに口をつけてみるよう勧められたけど遠慮した。話題はさらに発展して、ビールについての考察を聞いていたらいつの間にか時間は過ぎていく。


 時々お昼にお返しさせてもらうんだけど、基本的に須藤さんはワリカンを好まない人だ。当然のように会計をもってくれた。
 お礼を言って外に出ると、雨は小降りになっていた。今にもやみそうだったけど、近くの駐車場に止めてあった須藤さんの車まで早足で駆け込んだ。
 雰囲気に助けられていた地下や店内とは違って、車の中には二人しかいない。ラジオをつけているにもかかわらず、妙に静かに感じられる。じわじわと息苦しくなっていった。
「もしかして疲れてない? 大丈夫?」
「あ、はい。すみません」
 運転しながら、須藤さんがふいに口を開く。心配して言ってくれたのにぎくりとしてしまい、私はとっさに目を逸らして返事をした。こんなにやさしい須藤さんと、目を合わせられないでいる。
 なんでもないようなふりをして、ぼんやりとすれ違う車のライトを眺めている。雨で濡れたフロントガラスの隅っこで、光が滲む。あまりに見続けていたので怪しい残像が浮かぶようになり、目を瞬かせた。
「寝てていいよ」
「あっ、いえ、平気です」
 正直言ってここで寝られる豪胆さがほしいと思ってしまったけど、あらゆる意味で無理だ。首を振って会話を続けようとして、…詰まってしまう。
 ここで梅ドレッシングの話をし始めたら、さすがに不自然というか嘘臭くて白々しい会話になってしまうだろう。
 当たっては過ぎていく対向車線のライトが、須藤さんの横顔を暗闇から浮き上がらせたり沈ませたりする。
 何か言わなきゃと内心焦っていると、不意打ちのように確認された。
「今日は駄目な日だったね」
 それはとても穏やかな声だったのに。
 喉から心臓が出る、というよりは心臓が飛び上がって頭にまで移動するような勢いで動揺してしまい、私は無言で頷くことしかできなかった。そんな私を横目で見て、須藤さんが苦笑する。
「じゃあ、寄り道はなしだな」
「…すみません」
 心の底から申し訳なくて、私は小さな声で謝った。だって、嘘をついてしまったから。
 本当は、先日の発熱のせいか周期が狂って早くきて、しかもすぐに終わってしまったので駄目な期間ではないのだ。それでも、たとえ私が駄目な日だったとしても、その、須藤さんに喜んでもらえるようなことは知ってるし、そういうことをしたことがないわけじゃない。
 だけど、車も大概密室なんだけれど、もっと密室になった場所で須藤さんと二人きりになるのは怖かった。
「謝るようなことじゃないよ」
 何も知らない須藤さんはそう言ってくれたけど、私はもっと悲しくなってしまった。勝手な自分に、そして、やさしい須藤さんに。
 どうして先週、別人みたいに乱暴だったのかな…。熱が出るほど考えたのに、考えていくうちに明かりのない道路に迷い込んだみたいになって、ついには足元からわからなくなってしまった。
 先週ホテルに行って部屋に入った途端、いきなり後ろから抑え込まれた。そんなところでするのが嫌で、男の人の容赦のない力が怖くて、やめてって言ってもやめてくれなかった彼。
 受け入れるつもりがなかったら、最初からついて行かない。だから、どうしていつもやさしい須藤さんがそんなことをするのかわからなくて辛くて、そのうち声も出なくなってしまった。
 真っ青になって震えていたら、やっと解放してくれた。本当に、まるで知らない人みたいで怖かった。
 須藤さんは私に負けないくらい青ざめた顔で悪かったと謝ってくれたけど、須藤さんが理由もなくあんな豹変をすることはないと思う。だから私に悪いところがあったんだろうなと思ったけど、聞くのも怖くてそのままうやむやになっている。
 いや、少なくとも須藤さんは自分の非として謝罪してくれたんだから、うやむやというのはおかしいか。私が中途半端なんだ…。
 須藤さんの横顔から目を逸らして、真っ暗な窓の外を見る。何も見えない。鏡みたいになっていて、窓には自分の顔が映し出されるだけだった。
 それも見たくなくて、私は俯く。梅ドレッシングでも豆板醤でもなんでもいいから、どんなに嘘臭くても会話をした方がよかったかもしれない。
 後悔しても遅かった。



+back+  +Line-top+  +next+