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 余裕のない、ひりりとした空気がいつも漂っている。広いのに、静寂とは程遠いフロア。コールや声、それから人の動きに付随するあらゆる物音が交じり合い、気を緩めると四方で発生している音を吸収しすぎてついぼんやりしてしまいそうな喧騒が広がっていた。
 電話を切った後、メモを持って席を立つ。途端に鳴った電話を取ったけれど、すぐに済む用件にほっと息をついた。問われたことに即答し、ありがとうございました、と白々しいような明るい声で言ってから受話器を置く。
 次の電話が目の前で鳴る前に、素早く席を離れた。彼が戻ってくるのを待つのもいいけど、資料庫に入るついでに頼まれていたパンフレットを取ってくるつもりだった。ついででもなければ席を離れにくいし、何より電話の相手は急いでいたようだったから。
 背後で鳴り響く電話に早く戻れと責められながら、私はフロアの隅にある資料庫へと向かった。

 資料庫と言っても、暗い倉庫ではなくてパンフレットや販促品が保管してある明るい小部屋だ。彼がさっきここに向かって歩いていたのを目の端で捉えたから、たぶんいるだろう。
 フロアもそうだけど、クーラーが効いてて空気が乾燥していて喉の奥や肌が時々きしむ気がする。つくづく優しさのない環境だと思う。
 紙の匂いが薄く漂う部屋に入り、一定の間隔で部屋全体に並ぶ棚の間を覗きながら目的の人物を探す――より先に、笑い声が弾けた。そこに、困ったようで楽しそうな、楽しそうで多少の後ろめたさを笑いでごまかそうとしているような、人の噂をする時の独特な空気を感じる。
 聞いちゃまずいだろうなぁと考えて、私はそっと足を止めた。
 なのに、そこですぐに引き返せばよかったのに、下手に動いて見つかったら気まずくなるだろうな、などと考えてタイミングなんか計ったりするから。
「えっ、なんでー?」
「なんでって…」
 棚の合間から黒っぽい頭が見える。やわらかそうな猫毛っぽい黒髪。ここにきた目的の人物に違いなかった。
 女性側の心底不思議そうな疑問を受けて、一瞬考えるように言葉を切ってから、話の中心にいるらしいその男はいつになく硬い声を落とす。
「とにかく見てると苛々するんですよ」
「苛々って、…三崎さんでしょ? 何が? あんなに気配り上手で隙のない人いないじゃん」
「あー、まぁ…」
 ――変なことまで聞いてしまうんだ。よりによって私の話ですか。もっと華のある話をすればいいのに。ていうか、噂話ならせめて誰が近づいてもすぐに気づけるような場所でしてくれればいいのに。
 抑えた深呼吸を一回して、耳に入ってきた言葉を深く沈める。無意識にメモを折り紙代わりにしようとたたみかけていたことに気づき、手を止めた。実際元の四角い紙に戻すのも困難なほど難解複雑な折り紙にして机に置いてみたら、少しは楽しい気分になるかもしれない。
 くだらないことを考えつつくるりと踵を返し、音を殺して資料庫を後にした。
 …まぁ、どうでもいいことだから。関係ないし。

 半期に当たる九月だというのに、まだ嵐の前の静けさといった状態だった。
 とはいえ何月であれ、定時に帰れるなんてことは滅多にない、というより皆無だ。どうしても帰りたい時は強制終了するしかなかった。ただし次の日に地獄を見ることになることを覚悟しなければならない。
 そんな忙しい会社に勤めて、いつのまにか三年目になっていた。
 それでも七時前に会社を出られたことに満足しながら、エレベーターを降りる。どうしよう。気晴らしにあそこに寄ってみようかな。金曜日だけど、彼はいるだろうか。
 直接電話で聞けばいいのだろうけど、誘ったり誘われたりして待ち合わせるような関係になることは避けたかった。いるかもしないけどいないかもしれない、たぶん、そういう不確かな距離がちょうどいい。
 この後について考えている間に、一階に到着する。ドアが開いた瞬間、小さく息を呑んだ。
 本日できる限り顔をあわせたくない人物が、壁にもたれてタバコを吸っていた。
 うちの会社が借りているフロアは全面禁煙で、一階に設けられた小さなスペースが喫煙所になっているのだ。営業の人たちはそこでよく休憩を取っている。
 ちょっと早足で、すれ違い様に軽く頭を下げつつ「お先に失礼します」と呟いて通り抜けた。と思いきや、低い声で名前を呼ばれた気がした。
 いや、私に用なんかないだろうから聞き間違いに決まってる。思って、そのまま足を止めないでいると、
「三崎千明さん」
 さっきよりも大きな声ではっきりと、しかもフルネームで呼びやがりました。同じ課だし、無視するわけにもいかない。しぶしぶ振り返る。
「…何?」
 抑えているつもりでも、声にうっすらと気持ちが滲み出てしまっているのが自分でもわかった。だめだ。いい加減疲れてきているので、自制が緩くなっている。気をつけないと。
 軽く息を吐き出して、縁なし眼鏡の奥にある、アーモンド型をした眼を見つめ返した。きれいな形のその目にあるのは怜悧な輝き。突き放すような醒めているような、近寄り難さを感じさせるほどの。
「どうしたの?」
 同い年の彼、佐原穂くんは、だけど大学一浪のため一年後輩だった。有望株というやつで、何ごとも器用にソツなくこなしていく。誰とでも気さくに話をするようなタイプの上に、面倒ごとを押しつけてこないので事務陣の受けもよかった。実際仕事に限って言えば、彼の分はいつもきちんと整理されていて非常に気持ちよく処理することができる。
 少し書類に目を通すだけで、どうしたら相手がやりやすいかを考えてやってるんだな、ということがよくわかる仕事をする人だった。ただ、私は佐原くんの仕事振りは好きだけどその人自身は苦手なので、なるべく接触を避けるようにしている。
 …いや違う。私が苦手だとかという以前に、向こうが私を嫌ってる、という方が正しいだろう。
 今日だって、資料庫で聞きたくもない話を聞いてしまった。
「まだ仕事残ってた?」
 呼び止めたくせに、なかなか返事を返さない。無表情にじっと見つめられて、居心地の悪さを感じながら辛抱強くやわらかい声で聞いた。むっとしたときにむっとした声を出すとロクなことがないからだ。
 それなのに、佐原くんは私の質問なんてまるで無視して口を開いた。
「なんで黙ってるんですか?」
 自分こそ呼び止めておいて黙ってたくせに、と言いたいのは我慢した。なんのことを差してるのかはわかったので、小さく溜息をつく。どうして今日に限ってこんなにつっかかってくるんだろう。
 お互い気がつかないフリをすれば、何ごともなかったかのように流すことができるのに。
「何の話かわからないんだけど、必要があれば言いたいことは言うよ?」
 それでも白を切ったのは、ちょっとした反抗心からだ。とぼけられるものならとぼけ倒したいし、こちらから言うことは何もないもの。
 大人しいとかおっとりしているとか言われたりするけど、考えをまとめてから喋るせいでゆっくりとしているように見えるだけで、実際のところ割と血の気の多い性格なんだと自分では思う。普段は嫌だけど、はっきり物を言ってもケンカ腰には見えないようで、言い争いにはならないという点ではいいと思っていた。
 でも、佐原くんには通じないようだった。
「わかってるくせに。昼間いましたよね、資料庫」
 彼は決して察しの悪い鈍い男ではない。ということは、黙らせることに失敗したということだ。
 私は体を強張らせたまま、半ば無意識に息を吸い込んでいた。ここまではっきり言われてしまったら、仕方がないと思う。
 私も気が短いかもしれない。
「いたよ。なんでって? 何か理由があるなんてどうして思うのか、そっちの方が不思議です。それに、聞いてどうにかなるわけでもないでしょう」
 いつ気がついたのかわからないけど、わざわざ目の前でつついて掘り起す必要なんてあるのだろうか。そこまで自分のことが気に入らないのだろうか、そう思うとさすがに気持ちが重くなった。と、目の前の顔にちらりと意地の悪い笑みが過ぎる。
「三崎さんって、ガチな怒り方しますね」
 その顔を見て、あぁ、挑発されてるんだ、と悟った。なんなんだ。
 一瞬沸いた怒りは滝のごとく一気に降下して、底の方からなんとも言いがたいような冷たい疲労が泡みたいに浮かび上がって全身にまとわりついた。ふとした瞬間に絡んでくるのは今日が初めてではないけれど、彼の中にある何かをぶつけられるとまではいかなかった。これまでになく直接的すぎて困惑する。
 …なんなんだ、もう。私は胸の中に溜めていた空気を吐きだした。
「そう。でも、もういいよ。もう辞めるから」
 え、と止まった表情を見続ける気にもなれない。顔を逸らして出口に目を向ける。外はもう暗くなっているのに、車通りの激しい大通りは明るかった。
 早く外に出たい。
「私、来月で会社辞めるの。つもりじゃなくて確定事項。だから、何か腹の立つことがあるのかもしれないけど、もうちょっと我慢してくれると嬉しい。じゃあ、また来週ね。…嫌だろうけど、ごめん」
 佐原くんが何か言う前にその場を離れる。さすがに追いかけてはこなかった。



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