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 金曜日の大通りはいっそう人が多くなる。
 冷房の効いたビルから出た瞬間はむわっとした熱気を感じたけれども、疲れた足を引きずりつつ歩いていたらすぐに慣れた。肌に感じるのはもう秋の風だ。太陽が沈めば、すぐに引いていく熱。
 人の波に同化して大通りを駅とは反対方向に歩き、二番目の交差点で曲がって間もなく。その広くも狭くもない横道に目指す場所はある。
 ケバくもなくかといって寂れた印象もなく、街中にあるくせにおとなしめで存在感の薄い小さなゲームセンター。
 入り口付近に並んだUFOキャッチャー系ゲームの間を通り、中に入る。電子音やゲーム音楽、多すぎず少なすぎずの人の声。店内はさすがに賑やかな音が溢れていた。
 とりあえずワニでも叩くか、と足を止めた途端、後方から聞き慣れた声が飛んできた。
「あれ、千明」
 近づいてきた気配に顔を向ける。と、見覚えのあるダークブラウンの髪の男を見つけた。
 背は高くもなく低くもない。ルーズにはきこなしたジーンズ。無造作に被ったTシャツの上には、シルバーのアクセサリーが光っていた。
 全体に若者文化を漂わせていたりして、詐欺的に若作りのような気がする。最近も、残り少ない学生生活を満喫するという理由で耳にピアスを空けた。冬になったら外すそうで、社会人になったらちゃらちゃらしてられないからね、などと言っていた。
 だからといって、張り切ってちゃらちゃらしようとしなくてもいいと思うんだけど。真面目なんだかそうじゃないんだか、よくわからない。
 趣味はいいとは思うけど、どうにも軽そうな外見をしている。そのくせ、垂れ目気味な焦茶の眼がやけにきれいに澄んでいるおかげで警戒心を与えないところとか。笑顔になるとどこか子どもじみてさらに邪気を感じさせないところだとか、そういったところもよろしくないと思うのだ。
「あ、…修一くん。いたんだ」
 いるかなと思ってきたくせに、実際いたことに少し戸惑う。そんな私の驚きようがおかしかったのか、浅川修一くんは軽く笑い声をあげた。
「あぁ、うん。バイトを増やして、最近金曜日も街に出てるの。いたんだ、ってこっちのセリフだよ。千明こそ普段金曜日にこないでしょ?」
「えーと、私は今日早く終わったから」
「ふぅん。やなことあったんだ」
 修一くんは一度瞬きをしてから、やわらかな口調で言った。視線もやたらとやさしいけど、騙されてはいけない。あまりに天然だと図々しさもうっかり受け入れてしまいそうになる。
 この人の、すいっと滑らかに深く入ってくるようなこの遠慮のなさはなんとかならないんだろうか。なまじ目敏いものだから余計に困る。
 あまりにも直球すぎて、心の底に収まりかけていた波が刺激される。素直に頷けやしない。…まぁ、いいけど。こいつに細やかな気遣いは期待していない。一長一短って言うし。
 バッグから財布を取り出しながら、私は素気なく答えた。
「別に。いつもどおりだよ」
「へぇ、いつもどおり?」
「そう」
「そうなの?」
 って、なんなんでしょうこの会話。エコーみたいになっている。
 不審に思って顔を上げてみれば、修一くんは全然違う方向を向いていた。少し目を細めたその顔がやや硬いような気がして、視線を追ってみたけど特に変わった様子はない。時々、掴めない人だ。
 何もない空間を見つめる猫じゃないんだから。
「修一くん?」
「ん、あぁ。今、道に猫が歩いてたんだ。黒くて大きいやつ。危ないなぁと思ってさ」
 うらやましいくらいにさらさらの髪を揺らして、目を戻す。…どうでもいいけど、微妙にリンクしていたらしい。猫は猫だったみたいだ。
 それで真剣な顔をしていたのか。悔しいけど、なんだか彼らしくて微笑ましいと思ってしまった。仕方がないなぁと苦笑しながら硬貨を入れる。
「ここら辺ね、もう少し裏に入れば神社や公園があるの。そこ、猫もいるんだ」
「えっ、そうなんだ? 気がつかなかった」
「小さくてほんとに目立たないの。夜は人気がなくて怖いけど、昼間は雰囲気悪くなくて、いい息抜き場になって穴場なのよね」
 たとえば、職場の瘴気にやられて毒素を抜きたくなった時は特に。
 よし、今度猫見に行ってこよ、なんて嬉しそうに呟いている修一くんに、音楽が鳴り始めたと同時にハンマーを渡した。
「はい、始まるよ」


 夜空には淡いグレーの雲とまばらに瞬く星が浮かんでいた。それから、細く頼りない月。
 風が気持ちいい。流れる景色を横目にしながら、時々ごつんと下からくる衝撃を受けながら、意外と広い背中にしがみつきながら、タオルを敷いた自転車の荷台に乗っている。
 同い年であるはずの彼がまだ大学四年生なのは、二浪一留の人だからだ。だけどそれが遊んでいたからではなく、生活費を稼ぐためだというので正直なところ私は驚いた。
 その姿からは本当に想像しづらいんだけど、勤労学生なのだ。既に就職は決まっているそうで、単位はほとんど取ってしまった上に卒論もないから暇だと言って、頭脳系から肉体労働系まで幅広くバイトに勤しんでいた。
「なんのバイトだっけ」
 ふと呟くと、しっかり聞こえていたようですぐに返事が返ってきた。
「チラシ配り。鬼のように配ってきた。人の情けと冷たさが身に沁みたね」
「演歌の世界?」
「それそれ」
 背中が震えたから、恐らく笑っているのだろう。けっこうスピードを出しているのに、息が切れた様子はなかった。
 ぼんやりと荷台に乗って、くだらない会話をして笑い合う。風を切り暗い道を抜けていく今の時間が、一番好きかもしれない。しょぼいママチャリも、風の感触も、夜の匂いも、小石の転がった道も、お尻の痛さも、和やかで優しい空気も、丸ごとひっくるめて。
 どこに何の目的で向かっているのかとか、そういった意識まですべてが夜の闇に拡散してしまうような、この時間が好きだった。
 走り始めて二十分ほどが経過した頃、ようやく川が見えてくる。
 川と垂直方向に交差する道は狭い片側一車線の道路なのに、車通りは少なくない。その道に合流し、ヘッドライトに追い越されながら橋を渡る。
 橋は二本あって、道路用と線路用とが少し離れてかかっていた。
 橋の下を覗いても、黒々とぬめった闇に沈んで、まるで淵のようでよく見えない。
 吸い込まれちゃうよ、と、おどけた口調で修一くんが言った。後ろを確認したわけでもないのに。やっぱり、よく掴めない人だと思う。
 川原にある樹の影が、時折車の光に映し出される。それ以外は、青臭いような土臭いようなにおいと湿った空気が水が傍にある場所だと教えてくれるだけだった。
「いつも思うんだけど、ここ曲がった方が近道だよ」
「じゃあ、Aコースの時はそうするよ」
 橋を渡り切っても直線で進む彼に告げると、ちらっと肩越しに振り向いて答える。一瞬ライトに照らされた横顔にはやっぱり笑みが滲んでいた。
「橋から道路を真っ直ぐに降りていく感じが好きなんだ。だから、スペシャルがデフォなの」
 コースなんてあったのか。初めて聞いた。ていうか、普通はベーシックがデフォでしょ。まぁ、近道であれば道も選ばず目を血走らせて一直線、なんて必死なショートコースにされてしまったら引いてしまうだろうけど。
「スペシャルなのは何コース?」
「Dコース」
「って、最低四つはあるんだ」
 笑いを堪えながら突っ込みを入れてみると、修一くんが今度こそ声を立てて笑った。
「案内人がいるおかげで、迷う心配がないから適当に増えてくよ。俺より千明の方がここらの地理に詳しいよね?」
「あぁ、うん。高校生の時犬の散歩で来てたもん。あの川の堤防もよく歩いたの」
「…あれ。そんなに家近いんだっけ?」
「うーん。歩いて来られない距離じゃないけど、近いとは言わない気がする」
 返事をしながら、遠ざかっていく川を振り向いた。家からここら辺まで、徒歩で片道三十分はかかる。けれども、犬の散歩をしている人なら、一時間程度歩くのは珍しいことでもないと思う。
「でも、ぼーっと歩くの好きだから。ただ歩いてると、頭の中が空っぽになっていいんだよ」
 反応がなかったので、なんとはなしに説明を加えた。あの頃目に馴染んでいたのは、夕焼けの景色だったっけ。
 顔を合わせていないから、心地いい雰囲気だから、きれいな思い出もそのままに口に乗せることができるのだろう。
「その時好きだった人がこの辺りに住んでたのね。会いにきたわけじゃなくて確かな目的もなかったけど、動機はすごい単純だったなぁ」
「マジで? かわいいじゃん。うわ俺、高校生の頃の純な千明ちゃんに会いたかったなー」
 ――と思ったけど、全力で撤回。驚きすぎだ。日ごろどういう目で私を見ているのか、よく分かりましたとも。
 もう台無し。失礼なやつ。一晩廊下でバケツでも持って立たせてやらないと気がすまないくらい。こいつと情緒を共有しようと思ったのが間違いだった。
 ダークブラウンの頭を睨み上げる。もしもにょろんと手が伸びるなら、格好よさげに風になびく髪をぐしゃぐしゃにしていただろう。
「修一くんこそ思いきり不純なの!」
 代わりに、べしん、と広げた手のひらで背中を叩いてやる。いてっと低く発せられた抗議は無視するに決まっていた。

 その人は別の町に引っ越し、一緒に歩いていた犬は死んでしまった。新しくきた犬とはなんとなく来る気が起きなくて、修一くんと知り合うまで何年もの間足を運ぶことはなかった場所。
 今ここに来る時はいつも夜に紛れてよく見えないけれど、それでもあの頃と変わらない面影の中に何かが残っていて、それが私をほっとさせてくれるのかもしれない。



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