日曜日、家に残ったのは私一人だった。 明日からまた仕事だし、用もなく外出するのは億劫な気分。贅沢に時間を貪ることにした。 昼間からお風呂に入ってさっぱりしてから、ぱたりとベッドに転がる。 外はいい天気だ。外の光がほしいので、カーテンは開けてある。脇の机にはオレンジジュースを入れたコップ。極緩くクーラーをかけて、好きな音楽を流しておいた。 ぽかちゃんが横に寄り添って居眠りをし始める。和む。 もじゃもじゃの毛を撫でていると、頭の上に放り出してあった携帯が鳴った。メールだ。 携帯を手にしたまま、胸の下の痛みは消えているのになんとなく慎重に体を回転させ、うつ伏せになった。私の動きにつられてもぞもぞと動く気配を見せたぽかちゃんを反対側の手で宥めながら、画面を見る。 村田美知子、と表示されていた。 『千明、元気?聞いてよ、克己のやつ内緒で合コンしてた!信じられないよね、すっごいムカつく!』 彼女は高校から大学まで一緒だった友人で、地元に戻った私とは違い関西に残って元気に働いている。克己というのは美知の彼だ。 彼女とは年に数回会っていて、美知の彼とは一度だけ会ったことがある。美知は頼りないと言ってるけど恐らくそれは優しさからくるようなもので、軽い印象は全然感じられなかった。 かといって、事情があったとしても、内緒というのもどうかな。結局バレてるし。 優しい調べと女性ボーカルのかわいい声を背景に、怒り漲る文面をしばらく眺めてから、初犯なの?と返信してみた。しばらく経過した後に返信がくる。 『こんなこと何回もあったら付き合いきれるわけないじゃん。失った信用を取り戻すのは難しいんだから!でもわかった、仕方がないから今回に限り〆てから許すことにする!あと、まともな男を掴まえたって報告を待ってるからね!!』 絵文字は皆無で感嘆符は満載という今日のメールは、テンション高く見えるけど内容は固い。さすがに余裕がないのだろう。 それでも文面はいかにも彼女らしいと思わせるもので、さりげない釘の刺し方まで全部が美知らしい。 微笑ましさと苦さが絡み合って、ゆらゆらと内側を漂っている。 『うん、わかった。美知も手加減忘れないできっちりと頑張ってね。じゃ、またね』 送信して携帯を閉じ、ぽかちゃんを抱き寄せた。甘えんぼのぽかちゃんは、願ったりといった風情で体を預けてきた。私の腕を顎の下に敷いて、腕まくら。ほんと、和む。 音楽が耳を素通りしていった。 美知だけ知っている。彼女は眉をひそめるどころか眉を吊り上げたけれど。 「ね、三崎さんが退職されるという話を聞いたんですけど、本当?」 なんて直球で聞かれるかもしれないと覚悟していたんだけど、至って変わりばえのない日常で、安堵したというか拍子抜けしたというか。 いつもとまったく変わらない週のスタートだった。 月曜日は忙しい。週の終わりに滑り込みで出したであろう書類が山盛りに届いたり、金曜日の終業までに間に合わず土日が過ぎるのを待ちわびていたらしきところから電話が入ったり。 大嵐のような午前中をやりすごすとフロアの殺気も喧騒も次第に収まってきて、三時が過ぎる頃には少し楽になった。 「三崎さん、ファックスきてましたよ」 落ち着いた声と同時に上品なベージュの爪が目に入り、顔を上げる。細面の優しげな顔立ちながら、目力があるというのか目線が強い。一年先輩の清水さんだ。 「はい、ありがとうございます」 「…よろしくお願いします」 こっちをじっと見た気がしたのは自意識過剰だった。隣の席に座って何事もなく仕事を始めた彼女の姿を横目に、思わずため息が漏れる。 一瞬空いた間に、どきっとしてしまった。 気を利かせて黙ってくれているとか、この会社に限ってそれはない。何か情報を掴んだら、それが正しいかどうかを確認するために誰かが必ず探りを入れにくるところなのだ。探りというか、割と堂々と。 そして、その情報は慎ましやかにフロアに広がる。 とはいえ陰湿というわけではない、どころかむしろドライな方なので、居づらいとかそういうことはないだろうけど。けど、できればもう少し無風でいたいもの。 データを打ち込みながら、電話で取引先と連絡を取っているらしい黒い頭を目の端で捉える。今日は珍しく外出がお昼前の数時間のみで、ずっと社内にいるのだ。事務にさえ頼めない事務的な仕事でも片付けているのだろうか。 この忙しい月曜日に呼び出しがかからなかったことが不思議ではある。 コールが鳴ったので、受話器を取って応対する。と、……彼宛だった。 電話は終わっただろうかと体をひねると、ちょうど何かの拍子でこっちを向いたときだったらしく、想定外のタイミングでばっちりと目があってしまった。 「あ、…えと、佐原くん、横内さんから電話です。六番」 「はい、ありがとうございます」 ――黙っててくれてるんだ、と意外に思いかけ、意外でもないかと思い直した。 悪い人ではない、というか、いい人カテゴリに余裕で入る人だと思う。彼なりに筋があって、それをきちんと通す性格なんだということくらいなら知っている。ただ、合わないのはどうしようもないというだけで。 たとえば一度くらい派手にぶつけられたって、仕方がないんだろう。だから気にしない方がいい。 書類に目を落として、はぁ、と息をついた瞬間、 「三崎さん」 「………、えっ?」 数多の雑音より近くから名前を呼ばれて、通常のリアクションが取れなかった。いつの間にここへ…というか、電話を終わらせるのがやたらと早い。 なんだろう、と身構える間を与えずに、彼は屈託のない声で続ける。 「請求書の請求をされたんですけど、今日送れますか?」 請求書の請求? って、え? いや、え、じゃない、仕事だって仕事。 「…あ、はい。調べます」 焦って見上げて、眼鏡の奥の仕事モードな眼にぶつかって我に返る。頷くと、こくりと頷き返された。 時々、意外に子供っぽい仕種をする人だ。 「お願いします」 「請求先の名前と案件の番号を教えてください」 言うと、はい、とメモを手渡された。ここで名前しか用意していなくて「ちょっと待って」と情報を取りに席に戻る人も多いから、佐原くんはやっぱり心得ている人なのだろう。 彼の字は、イメージ通りと言えばいいのか整っていて読みやすい。ちゃらい外見に反してしっかりとした案外骨太な字を書く男もいるから、イメージなんてアテにならないけど。 番号を打ち込んで、基本データを表示させる。その先を調べようと指を動かしたとき、ふと気がついた。 …なんだろう。 用が済んで席に戻るかと思いきや、そこから動く気配がない。もっと力を奮い立たせなければいけないみたいだ。 「少し時間かかりますから、」 心を決めて振り仰ぐと、彼の視線は画面ではなくてこちらにまっすぐ注がれていた。 面食らって言葉を呑みこむ。 眼鏡越しに切れ長の眼にがしっと掴まれ、今度は何を言われるのかという警戒が走った。とはいえ、下手に反応することで彼を苛々させるのかと思うと気が滅入るので動揺は見せたくない。 まさに隙を見せられないカエルの心境だ。 電話が鳴ったけど、中途半端に話の最中でもあるので出るに出られないこの状況。隣が受話器を取ったようだと、声で確認したりして。 ――いや、固まっている場合ではなかった。深く考える必要はない。何をしてもよくは思われないんだろうから、今更あれこれ考えて二の足を踏むことはないから。 再び指を走らせる。早く仕事に戻ろう。思い直して、途切れた言葉を押し出した。 「……後で持っていきますけど」 「はい、お願いします。すみませんでした」 けれど、不意打ちにまたしても絶句する。 はっきりとした声で付け加えられた言葉が何に対して言われたのか、なんてあまりに明確すぎる。驚きのあまり、切り替わった画面を確認するふりをして、まっすぐに切り込んでくる視線を微妙にかわしてしまった。 なんにしろ、とにかく何事もなかったかのようにはしない性格らしい。金曜日の時と同様に、ただし今度は場所を選ぶ気はないらしいけど。 一瞬躊躇ってから視線を戻し、けれど彼の瞳の奥をうっかり探ってしまわないように目は合わせなかった。 とはいえ、じっと注意深く見られてるのはわかる。変な汗が出てきそう。酸欠の魚みたいに口をパクパクしてみたい気がする。 細く鋭い棘みたいなものを潜ませた言動は消して、でも不自然に近寄ることもなく、余計なことは言わずに謝罪だけ…思った以上に真面目な人なのかもしれない。 あと少しの間だから我慢してほしい、と言ったのを受け入れてくれたということなのだろう。私は、もう残り少ないから当たらず触らずで行きませんか、というつもりだったのだけど、あの件について謝るのは不自然なことでもないし。 そう思って、首を振った。 「いえ」 ようやく発した短い返事を受け取った佐原くんは、表情を変えずに、でも微かに息を吐き出した。そして、終了の合図よろしくゆるく頷く。 深追いをしないつもりなのは助かる。 脇を忙しく人が通り過ぎていく。周囲の人たちに変に思われてたらちょっと嫌だな、と思い、でもどうせもう一ヶ月余りだし、と気を取り直した。 キーを叩き、知りたかった情報を引き出した。少しやっかいだけど、対応できる範囲でよかった。 「請求書、システム課に連絡しないといけないので今すぐには無理ですけど、出せますよ。先方には、原本は郵送になるかもしれませんが本日付で送ります、とお伝えしていただいて大丈夫です」 伝えると、気がかりだったのか佐原くんはわずかに表情を和らげる。ややトーンの上がった声で、 「ありがとうございます。お願いします」 律儀な返事をして席に戻っていった。 妙な緊張に支配されていたせいで、ほうっと力が抜けた。糸が切れたみたいにぐったりと、椅子に全身を預ける。 十秒だけ、休ませて。 …という願いも空しく、ジャスト五秒で隣から声がかけられた。 「三崎さん、二課の倉本さんが電話くださいって」 「あ、はい。ありがとうございます」 姿勢をただして受話器を取る。 |