back/ site top/ next/




 前髪をそっと撫でられたような、そうでないような。そんな曖昧な感覚が遠く浮かんだのをきっかけに、ゆっくりと感覚が戻ってくる。
 ってなんだろう、今の。我ながら不可解だ。嫌なことがありすぎて、至るところがささくれだっているからだろうか。無意識に甘いものを期待してるのかな。
 眠りと目覚めの境目付近でゆらゆらと揺れていた、けれど、不意にどこか底の方から何かが浮上してくる。細い刺で引っかくように、やたら落ち着かなくさせる、感覚というか意識というか。
 …だったらだめだ。早く目を醒まさなきゃ。しっかりしないと。
 思ったと同時に、冷やっこいものが口の中に広がった。
 いきなり鮮明になる。ぼやけた世界から一気に引き上げられて、心拍数まで上がってしまった。
 反射的にごくんと飲み下しながら、目を開ける。光が差し込んで痛い。一瞬閉じてから、ゆっくりともう一度開いた。
 と、至近距離から覗き込んでいた焦茶の瞳が視界に飛び込んできた。
 睫毛にやさしげに囲まれた、かわいらしい二重。ちょっと垂れたその目だけを見ると女の子みたい。
 なんて思いつつ懸命に焦点を合わせていると、目の前の相手がふぅと息を吐いた。前髪が揺れる感触がした。
「ちょっと焦った」
 近いからか、ため息に近いような声音で言う。私もまだ声を出しづらいので、囁くように返す。
「何言ってるの、こっちは心の底から驚いた。心臓どきどき言ってるもの」
「いや、ごめん。…加減忘れた。大丈夫?」
「忘れないでよ」
 言いながら、力なくチョップを食らわせてやる。持ち上げるだけで大変だ。でも、さっき水を飲ませてもらってなかったら、声もでなかったかもしれない。
 くだけた雰囲気に修一くんの目元が緩んだ。安心したのか、覆いかぶさるように近づけていた体を起こす。
 代わりに、見慣れた白い天井がようやく目に入ってきた。
「ぐったりして動かないから心配した」
「ごめん、でももう大丈夫だから。ありがとう」
 模様を目でなぞりながら、ぼうっと考える。
 そういえばさっきも焦ったとか言ってたけど、そんな雰囲気あったかどうかが定かではない。というより、取り乱した彼を見た記憶なんてないような気がする。
 目を開けたとき、彼はどんな表情をしていたんだっけ。ピントがあったときには、もういつもどおりの涼しい顔をしていたような…まるで覚えていない。
「どのくらい経った?」
「え? ああ、そんなには経っていないと思うけど」
「…帰らなきゃ」
 時刻を確認して呟くと、彼は二三度目を瞬かせた。それから、渋面をつくる。
「キツそうだよ。今からだと終電も危うくなりそうだけど、急いで帰れるようには見えない。明日は土曜日だろ、無理せず泊まっていけば?」
「タクシーつかまえるから大丈夫。…シャワー借ります」
 ちょっとあっち向いてて、と告げてのっそりと体を持ち上げる。ギシギシする。体に砂でも詰まっているんじゃないかと感じるくらいに重かった。
 一番重く感じる腰を上げる前に、コップを取って喉に水を流し込んだ。


 ひとつだけ私物を置いている。紺無地のバスタオル。
 最初の頃はしばらく借りていた。でも他人のものが自分専用みたいになるのもどうかと思ったので、迷ったけどそれだけは自分で用意することにしたのだ。
「洗濯機の中に放り込んでおいてよ」
 と言ってくれるのに甘えてしまっているんだけど、彼はさらに洗ってたたんで定位置にしまっておいてくれている。
 結構マメな人だ。兄妹のように育った女の子が身近にいたというから、そのおかげかもしれない。
 ぬるめのシャワーを浴びて、ちょっと回復する。けど、胸の付近にヒリっとした刺激を感じて目を落とすと、薄く歯型の残った赤い跡を見つけた。指の先でつついてみたらはっきりと痛みを感じて、顔をしかめる。
 今度同じことをされたら思いきり蹴っ飛ばしてやろう。確かに私も悪かったとは思うけど、加減を知れと言いたい。
 湯船にゆっくり浸かりたいなぁ、と思いつつ、使ったタオルを洗濯機の中に入れて部屋に戻った。
「いつも悪いけど、タオルお願いします」
「あぁ、うん。で、本当に大丈夫なの?」
「うん、大丈夫」
 何回同じ確認をしても気がすまないらしい。なので、今度も即答しておく。
 修一くんは割と女に甘い部分があるのだ。男兄弟で育ったからだと彼は言うけれど、女三姉妹の家庭で育った私にはいまいちピンとこない理屈だった。
 女姉妹しかいないからといって、別に男に甘いというわけではないと思うので。
「だいぶすっきりしたから」
「…そう?」
「うん、そう」
 軽く会話を交わしながら、帰り支度を整る。机に頬杖をついてそんな様子を見ていた修一くんが、それまでと変わらない口調で不意に呟いた。
「千明さぁ、あったかくて抱き心地いいよね」
「へ? ……あ、えーと。うん、体温が高めだからかな」
 唐突に変なことを言われたら、挙動不審気味になるのは仕方がない。言葉がすぐに出てこなかった。相変わらず思考回路の読めない男だ。
「あぁ、そっか。俺、体温低いから余計に気持ちいいんだ」
 一人で勝手に問いかけて、一人で勝手に頷いている。訳なんてないんだろうけど。
 最中ならまだしも、なんで今?と思う。
 なんでそんなことを言い出すのか、さっぱりわからない。他に一途に思い続けている子がいるくせに。
 いい方に捉えればとてもあったかい気持ちになれるかもしれないけれど、よくない方に捉えるととんでもなく寒い。ナチュラルにたらしなんだと、つくづく噛み締める。
 わっるい男。
「そういえば、子どもの頃は熱を出した家族によく添い寝をしてたんだよ。高熱出したらすごく寒くなるでしょ? でも、私が布団にいるとぽかぽかしてくるんだって」
 自分とは正反対に、冷え性でいつも手先が冷たくて熱を出しやすい姉が脳裏に浮かんで……そして、なんとなく後ろめたい気分になった。
 なので、今の瞬間だけ修一くんを非難してみることにした。ちょっと睨んでやる。
「って、そんな豆情報はどうでもいいか。帰ります」
 最後の「す」に若干力を込めた挨拶をして、かばんを持って立ち上がった。私の動きに沿って彼の視線が上がるのがわかった。
「じゃあね、また」
 言葉を置いて部屋を後にし、玄関のドアに手を伸ばす。服がこすれたのか、胸下に痛みを感じる。
 でも伸ばした勢いは止めずにドアを開けようとした瞬間、じゃ、また、という声が背後に届いた。


 タクシーが音も控え目に去っていく。会社を出た時よりも空気は冷たい。細い月はあいにく雲に隠れてしまっていた。
 どんな関係といえば、恋愛感情はないので友達だ。
 二人ともつきあっている人はいない。ただ、修一くんがもう長いこと報われない恋をしているのは知っている。
 普段は心の奥の底の方に沈めていると思うんだけど、さっきみたいに自分を通り越して別の何かを見ていると感じた時の苛立ちを見せらたりすると、彼の押し隠した弱みとか傷みたいなものがそれとなく感じ取られるのだった。
 とはいえ、今回のは誤解なので怒られ損。不必要な痛い仕返しをされてしまった。貸しとしてツケておいてもいいと思う。
 門灯と玄関の明かりがついている。そっと家に入ると、待っていたのか飼い犬のぽかちゃんがお出迎えしてくれた。しー、と指を口に当ててから頭を撫でてやる。
「遅くなってごめんね」
 独り身同士で誰かに迷惑をかけているつもりもないけれど、人によっては眉をひそめられる友人関係だろうな、とは思う。でも、誰かを異性として特別にしたりされたりとか、お互いそういうごたごたにうんざりというか疲労していたし、別に誰に理解されなくてもいいや、とも思うから。
 と、ぽかちゃんが目をしぱしぱと瞬かせていることに気がついた。眠気絶頂らしい。やけに人間臭い動作に思わず笑ってしまいながら、もう一度丁寧に頭を撫でた。そして、腰を上げる。
「わかった、本当にごめん」
 化粧を落として、もう寝よう。



+back+  +With-top+  +next+