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第2章  緑の館


 森に囲まれたサウラ領は、ロヴァニア王国の王都ブランシュ・アルトのすぐ西に位置する小さな領地である。
 中枢近郊とは思えないほどにのどかで、自然に恵まれた豊かな土地だった。
 気品ある容姿と気取らない人柄とで民の人気を集める領主は、サウラの端に住んでいる。
 門をくぐり抜けると、そこに広がるのは花や緑のあふれる清潔な庭。
 その奥にある、2つの塔を抱く建物のことを、人は緑の館と呼んでいた。
 繊細な透かし細工の施された塔は、四百年も昔のものであるという。
 だが、長い歴史にも耐えてきた小さな館も、当主とその養い子の平穏を守りきることはできなかった。


 翠月の最初の日。
 その朝も、リンディ・エル・ディアスは朝露に濡れる裏庭を静かに楽しんでいた。
 館と垂直に向かって縦に伸びる細長い池。
 池の周囲をぐるりと小道が囲み、小道の端からは緑の森が広がっていた。
 一風変わった裏庭だが、表の庭と同じくらい彼女は気に入っていた。
 歩く途中で、道の脇に初咲きの青星花を見つける。小さな春の花だ。
 憂いがちな翠の眼差しに、微笑が含まれた。
 咲き乱れる花々は、緑の合間から四季の彩りを届ける。
 吹き抜ける風が穏やかだった。
 散歩を楽しみつつ館に戻ってくると、彼女を捜していたらしい庭師が慌てたように近寄ってきた。
「お嬢さま!」
 新参者の彼にいまだ警戒を解けないでいるリンディは、つい対応が遅れてしまった。
 そんな彼女の様子には気づいていないのだろう。
 彼は息を切らしつつ、早口で言う。
「先ほど、お客さまが到着されました」
 驚きのあまり、リンディは息を呑んだ。
「こんな朝早くに? 聞いてないわ。いったいどなたが……」
 困惑して独りごちるが、自分に向けられた庭師の視線を意識し口をつぐんだ。
 屈託のない善良そうな目なのに、心苦しく思ってしまう。
 そして、そう思ってしまう自分に落ち込み、悪循環となる。
 庭師のイーガスは特に個性が強いというわけではなく、むしろ存在は控えめな方なのだ。
 腕はいいし、仕事熱心でもある。
 紹介者はダスト子爵だと言っていたから、身元だってしっかりしているではないか。
 彼はきっと、困り顔の主人を気遣っているだけなのに。
(誰だって合わない性質の人間はいるってアベルは言ったわ。心配性だねって)
 そうではないことを彼女の保護者も知っているのに、彼はいつも明るく笑ってそう言う。
 そうではないからこそ、深刻にさせない彼の言葉に助けられるのだけれど。
 沈黙を待ちきれなくなったのか、彼は再び口を開いた。
「侯爵さまがお呼びですから」
「え、本当に?」
 動揺のあまり、おかしな反応をしてしまった。庭師が訝しげな顔をする。
 我ながら、妙なことを言ってしまったと後悔する。
 どんな家庭だって、客が訪れたら家人が挨拶するのはごく当然のことではないか。
 いや、ここではごく当然のことではなく、そのことは古くからいる使用人なら知っていることではある。
 でも、彼はまだ知らないだろうし、不安に思うからこそ彼の前では平静でいたかった。
「いえ、わかりました。ありがとう」
 まるで逃げるように、彼の前を去る。
 おかげで、来訪者が誰なのかを聞きそびれてしまった。
 これまで侯爵は、人見知りの養い子に客への挨拶さえ強いることがなかった。
 むろんそれは非礼に違いないのだが、そもそもほとんどの人間はリンディがここの姓を持っていることを知らないのだ。
 そして知っている者たちは、リンディになにかを強いることをよしとしないだろう……。
 一瞬だけ、ある顔を思い浮かべたのだが、今はまだ多忙なその人が来られるような時期ではない。
 第一、それなら知らせてくれる存在がある。
 では、誰なのか――思いつかないから、行きたくない、と思う。
 自然、足取りは重くなった。のろのろと扉を開き、館に入った。
 アーチに支えられた幾分高めの天井。
 エル・ディアスの緑の館は、実に機能的に造られた館である。
 貴族の屋敷としては小さいのだろうが、十分な広さを感じさせる。
 緻密な計算に基づいた設計が、空間にゆとりを生み出しているのだ。
 高度な技術が、至るところに隠されている。
 その効果なのだろう、館には常に光が溢れているのだ。眩しいほどに。
 気配を伺い、リンディは少し首を傾げた。
 急な客の来訪という割には、静かすぎるような気がする。
 と、のんびりとした声がかかった。
「リンディさま」
 上品な壮年の執事が、にこやかに主を出迎える。
 当家の執事を代々務めてきたという彼の家系は、由緒正しいと言えるものだろう。
 現当主が生まれたときにはすでに、彼は執事として働いていたと聞いている。
 だとすれば、かなり若い頃から奉公していたことになる。
 有能だが、いつも泰然として掴みにくい人だ。
 主の影響なのか逆なのか、リンディには判断がつかない。
 ただ、彼のとらえどころのなさに怯えたことは、これまで一度だってなかったように思う。
 それさえも、相性の問題なのだろうか。
 一度とぎれた物思いに、再び引きこまれていく。
 初めてサウラに来た頃は、そんなことを考えるような余裕などなかったから、自分でもよく思い出せないのだ……。
 彼女の憂い顔に気づいたようだが、執事の笑顔は崩れない。
「お待ちしておりましたよ」
「イーガスから聞いたの。お客さま? 珍しいのね」
 不安のにじんだ声にも、
「はい。ご不安なら、このマルトがついていって差し上げますよ。ああ、そんなお顔をされる必要のない方ですから」
朗らかに応じる。
「ただし、扉の前まで、ですよ?」
 何と返したらいいのか迷っているうちに、
「さ、お早く」
などと、さっさと先に立って廊下を歩き始めてしまった。慌てて彼の後を追う。
 乳白色を基調に、交互に組まれた淡緑と黄の石が彩り床模様を描く廊下は、現代の感覚からしても斬新な組み合わせと言えるだろう。
 しかも品を損なわない。
 だが、その上を歩く靴音が、今は妙に重く響いて聞こえるのだった。
 応接間の扉の前で、マルトは足を止めた。リンディは小さな息をつく。
 振り返った執事は、彼女の様子を気にもとめていないようだった。
 それどころか、声を潜めて、
「お恨みなさらないでください。口止めされたのはお客さまですから。私は反対したのですよ」
ささやくと、どこか茶目っ気のある執事は扉に手を掛けた。




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