部屋の中もまた眩しかった。
おずおずと足を踏み入れる、と同時におっとりとした声が耳に届いた。
「おや、来ましたね」
出迎えるのは、ディアスの優雅な主だ。
ややくせがかった蜜色の髪を後ろで束ねたその姿には、匂い立つような気品が指の先にまで満ちている。
アベリュスト・エル・ディアス。今年で二十八歳になる若き侯爵は、少女に笑いかけた。
「おや、憂い顔。どうしましたか?」
凪いだ湖のような深い眼差し。青い瞳が、気遣うようにリンディを見た。
この状況で自分がどんな思いを抱くのか、想像できない彼ではないのに。
リンディには、どうかしたのはアベリュストのように思える。
答えようがなくて、ただ首を横に振ることしかできなかった。
春を乗せたゆるやかな微風が通り過ぎていく。
アベリュストの指が、リンディの乱れた髪をそっと整えた。
そのまま手を肩に置き、微笑を含んでやさしく言い、
「ほら、お待ちかねですよ」
「人見知りは健在だね、リンディ」
――その後に、穏やかな声が続いた。
聞こえ覚えのあるその声に、リンディははじかれたように振り返る。
動きに遅れて、長い髪が空を舞った。
その合間から、彼女は自分のものではない淡い金髪を認めていた。
見間違えようもない。
まるで兄妹のようだねと、かつてアベリュストにからかわれたことのある、それは。
「一年ぶりかな。少し背が伸びたね」
髪が背中におさまったときには、彼はすでに目の前に立っていた。
背はアベリュストよりやや高い。血縁関係があると聞かされたら誰もが納得する、どこか似通った面差し。が、彼の方がやや線の細い印象を与えるかもしれない。
淡い水色の瞳に、冷たい印象はない。それなのに氷を思わせる、透き通った双眸――。
リンディは思わず両手で口を覆った。
「リオン?」
小さな呟きを聞き逃さずに、青年は笑って頷いた。
「本当? 本当の本当に?」
「ぼくが夢に見える?」
彼は、ますます楽しそうに笑った。
「少し予定を早めたんだよ。そんなことより、きみは再会を喜んでくれないのかな」
伸びてきた腕に、抱きしめられる。
まるで夢の世界から引き上げてくれるようなやさしい手は、確かに現実のものだ。
(夢じゃないわ。夢なんかじゃない……)
ほっと緊張を解き、リンディは彼にしがみついた。
こんなふうに、昔のようにいつも傍にいてほしい、といつも思う。
もちろん口にすることなどできない。
そんな都合のいい希望を求めてはいけないのだ。
心安らぐ環境に守られた現状に甘えている自分だから。
我が侭を言えば、彼が困るだけだから……。
それでもこうしていると、心のままに口走ってしまいそうだった。
「どうして? 教えてくれたっていいのに、ひどいわ」
弱い心を隠すために、身を離して上目遣いに睨んでみせる。
つれないなぁ、と呟き、彼はリンディを放した。つと身を屈めて目線を合わせ、
「口止めしたんだよ。ごめん」
口調はいたずらっぽいが、その目は真剣な光を帯びているように見えた。
まず、その差に戸惑う。
「……え?」
「驚かせようと思ってね。ディアスの有能な執事にも協力してもらったよ」
状況把握に、一呼吸は必要だった。震えそうな唇を一度噛み締め、でも、言葉は飲み込むことができなくて。
「ひどいわ! それでさっき、マルトがあんなことを言ってたのね」
泣いてしまいそうだ。涙をこらえたくて、眼に力を入れる。
再会の喜びと安堵の反動と、試すような仕打ちへの驚きと悲しみが胸の内でぐるぐると回って制御しきれない。
「わたし、どんなに……!」
せっかく会えたのに。こんなことを言いたいわけではないのに。
ふと、水色の目が細められる。かすかな吐息を漏らしたように感じたのは、気のせいだったのだろうか。
「ごめん。悪かったと思ってる」
再び腕の中に抱きしめられる。
「きみの様子はよく聴いていたよ。彼は少し甘すぎるね。おかげで、不本意ながらぼくが厳しくしなければならない」
「不本意なことはしないに限りますね」
のんびりとアベリュストが口を挟んだその時。
「おいおい、王さま。俺のことをすっかり忘れているんじゃないだろうな? 出る機会に悩んでる客がここにいるぞ」
なめらかに低い声が割って入った。茶化すような、陽気な口調で。
「思い出さなければ正式名称で呼んでやるよ、リオヴェルト・ルイス・アル・ローヴァン陛下?」
「それはどうも。もちろん覚えてるとも、ファーン・エル・グリーク。ディーン・エル・グリークの息子にしてジュノザ領・レイシュ領・サージ領を統べる名門グリーク伯爵家の後継者。
二十歳にして国を動かす噂の実力者。
待ちきれなくなったかな、従弟殿?」
即座に、しかも割り増して切り返し、リオヴェルト――ロヴァニア王国を治める若き王は腕を解き、声の主を振り返った。
つられるようにして、リンディも視線を移す。
臣下としての礼にまるで欠けた態度を改める様子もなく、彼は続けた。
「ああ、心配になってきたからな。初対面の挨拶もさせてもらえないのかと」
惜しみなく注がれる日の光を半身に浴びて。
鋭い容貌に笑みをたたえ、窓辺に腰かけたまま見物を決めこんでいた黒ずくめの青年は、リンディをまっすぐに見返した。
背後に広がる蒼穹と同じ色をした、群青の瞳。
ざっ、と、突風が吹きぬける。緑のカーテンが風を含んで大きくはためき、彼の姿を一瞬隠した。
リオヴェルトの腕にすがりついたまま、リンディは息を詰めて立ち尽くす。
見知らぬ気配には敏感なはずなのに、声をかけられるまで、なぜ気がつかなかったのだろう。
隣に立つ青年に、どうして、と今度は問うことができなかった。
次から次へと不意打ちを仕掛ける意図がわからない。
ただ、何の理由もなくこんな強引なことをするはずがないという思いだけに支えられているような気がする。
グリーク伯爵とアベリュストの親交は聞いてはいたけれど。
(なに?)
嫌な予感がした。だからこそ、動揺する心を懸命に抑え、冷静を保とうとした。
けれど。
まともに突きつけられた視線に、努力を放棄してしまいそうになる。逃げ出したい衝動に必死で耐える。
いや、リオヴェルトの手がなければ行動に移してしまっていただろう。
受けた衝撃に気づくことで、リンディはさらに深い衝撃を受けていた。
ここまで決定的に思い知らされる場面など他にない。
数ヶ月前、庭師との対面を円満に済ますことができたのは、何ヶ月も前から心を決めて、予め自分を守っていたから、だからなのだ。
わかっていたつもりでも……その事実はリンディを打ちのめす。
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