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 一目見て、まるで春のようだ、と思った。
 無垢な肌。まっすぐで淡い色の髪。印象的な翠の瞳。
 窓辺から腰を上げて、ファーンはいたって気さくに挨拶した。
「はじめまして。ファーン・エル・グリークと申します。いや、今さら上品ぶっても無駄か」
 リオヴェルトにしがみつく少女に異様な緊張が走っていることは、見ただけでわかる。
 怯えている?
 そんなに怖い顔をしてたのかと、改めて自分の顔を鏡で確認したい気がする。
 不思議なことに、少女の無礼に気分を害されることはなかった。
 それどころか、その痛々しい姿が心配でいても立ってもいられないような気持ちにさせられる。思わず手を差し伸べてしまいたくなりそうな。
 ますます追い詰めることになりそうで、行動に移すことなどできなかったが。
 そもそも、この少女は何者なのか。
 緑の館には十七歳になった女の子がいる。どうやら人見知りらしい。ファーンが知っていたのはこの二点だけだった。
(これを人見知りと表現するか?)
 呑気すぎる。もっと深いなにかがあるのではないのか。
「よろしく」
 思考を表情には出さず、礼をとる。
 続いた数瞬の沈黙を、ファーンはやけに長く感じた。
「リンディです。ようこそ、サウラの緑の館へ」
 ようやく返された小さな声。
 伏せられた睫毛が、翠の瞳に翳を刻んだ。深い憂愁が彼女を閉ざしていくようだ。
 つい先刻までほんのりと輝いていた少女の面影はどこにもない。
 と、おっとりとした声が投げられた。
「こちらにおいでなさい」
 アベリュストが、優雅な動作でリオヴェルトの腕からリンディを奪う。そのままソファに座らせ、彼女の前髪を払い、気遣うように覗き込む。
 無事を確認したのか、彼は軽く息をついた。そして、振り返る。
「私も騙されたような気がします。あなたらしくないですね、リオン。ファーンも順序は守って頂かないと。まったくあきれた方たちです」
 いつも通りの呑気そうな口調ではあるが、その目は呑気さとは程遠かった。
「なにを焦っているんです。二人とも自分の思惑が先行していませんか? 頭を冷やす時間でも差し上げましょうか?」
 ――焦っていたのは、確かかもしれない。
 図星を突かれてファーンは弁解する言葉を失ってしまった。
 低く応じたのはリオヴェルトだ。
「申し訳ありません。少し正気を失っていたようです」
「いいでしょう。言い訳をお聞きして差し上げます」
 が、強い視線を返されて、痛みでも感じたかのように目を伏せる。
「いえ、口に出せるようなことはなにも」
「なるほど、疚しいところがおありだということですね」
 アベリュストは追求を緩めない。
 涼しい顔で取り澄まし、なにがあっても強い感情を表に出すようなことはしない男だと思っていた。
 たとえ相手が自国の王であろうと奥さず、言いたいことは言ってのけるような人物ではあったのだが。
(なんだなんだ、親父並に薄ら恐ろしい気がするぞ)
 抽象的なのに、容赦なく真実を突くようなことを言う。確実に相手を挫かせるこの感じ。
 容姿や口調は春と冬ほどに違うのだが、近隣諸国にその名を轟かす父ディーン・エル・グリークと共通するものを見つけてファーンは思わず半歩後退りした。
 心理戦が苦手だというわけでもないが。
 この男を怒らせるようなことは二度としないことを心に誓う。
「その、侯爵。本当に申し訳ありません。言い訳というのはごもっともで返す言葉もありませんが、俺たちが焦る事情があるのは確かです」
 果敢に口を開いてみたが、自分でもしどろもどろのような気がして情けない。
「言い訳と事情の区別はついてるつもりです。あなた方が事情もなしにこんなことをするような人間だと、私が思っているとでも? ひどいですね」
 アベリュストの反応はにべもなかった。だからなんなのだと言わんばかりである。
 おっとり口調がそのままなだけに、伝わる冷ややかさがなんとも怖い。
 そんな二人の窮地を救ったのは、壊れそうに華奢な少女だった。
「アベル」
 伏し目がちながら、リンディがそっと彼の腕を引く。
「そんなに怒らないで」
「おや、あなたがそう言うのなら」
 少女に視線を移したアベリュストは、にっこりと笑った。
 その豹変ぶりに、ファーンは唖然とした。つくづく恐ろしい。
 お構いなしの様子で、とってつけたようにアベリュストは言った。
「では、そろそろ本題に入りましょうか」
「はい」
 リオヴェルトが淡々と相槌を打った。……嫌な慣れ方をしている。
 と、ここで呆けている場合ではないことに気づき、ファーンは異議を唱えた。
「今ここですぐに、ですか?」
「そうだよ、ファーン。心配はいらない」
 さらりと言うのはリオヴェルトだ。
 ファーンは一瞬口を開きかけ、思い直してそのまま閉じた。腕を組み、沈黙でもって説明を促す。
 ここは秘密が多すぎる。
「賢者の樹?」
 小さくもはっきりと、偉大なるその名を畏れなく口にしたのは――翠の少女。
「だから一月も早くサウラに?」
「うん。……ごめん、それもきみに伝えないようぼくが望んだ」
 疑問を込めて送った視線を軽く受け流して、リオヴェルトはリンディの座るソファの前に跪く。
 彼女は、先ほどのようにどうして、とは問わなかった。
 一瞬覗かせた傷ついたような表情を隠すように、緩く首を振る。
「ごめん」
 彼女から目をそらさずに、リオヴェルトは再び謝罪の言葉を口にした。とても真摯に。
「騙すつもりはなかった。でも、きみが傷つくことはわかってたんだ。――ごめん」
 無防備な顔だ。彼のそんな表情を見るのも初めてだった。
 腹の底にうるさいものを感じて、ファーンは顔をしかめる。
 しばらくの沈黙の後。
「いい。半日で帰っちゃうよりも、長くいてくれた方が嬉しいから。でも」
言ってリンディは腕を伸ばし、リオヴェルトの手に触れた。
 リオヴェルトの手は男としては普通の大きさだが、女と比べれば当然広く大きい。
 だから、その手をきゅっと握る細い指が頼りなく見えるのかもしれない……。
 頭の片隅で、ファーンはぼんやりと思う。
「でも、こんなことはあまりしないで?」
「約束する」
 リオヴェルトは即答した。伸ばされた白い手に空いている手を重ねて。




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