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 ロヴァニアの守護と讃えられ、崇められる賢者の樹。国を継ぐ者との契約によってロヴァニアを守るという。
 その所在は明らかにされておらず、だれが決めたのかは定かでないが、もっとも信憑性の高い説として王宮シ・ア・ランスの裏の森が挙げられており、理由は定かではないが多くの人々がそれを信じていた。
 真実を知るのは、直系の王族と《無名の騎士団》と呼ばれる六爵家の直系のみ――…。
 アベリュストは夕刻には館を発たなければならない。
 時間がないと言ったアベリュストに、ファーンは部屋から連れ出された。
 時間がないというなら、余計な移動などせずに話を進める必要があるのではないか。訳がわからない。
 しかもリンディについて、いまだになんの説明も受けていないのだ。
 ――重ねられた手と手。先ほどのまるで神聖な誓いのような光景が、瞼の裏にまだ残っている気がする。
 それを追い出そうと軽く頭を振り、
「で、なぜ俺だけ?」
短く問うと、
「一応グリークの跡継ぎに不在の間代理をお任せするという設定ですからね。案内を兼ねて」
早足でも優雅さを損なわない足取りで先を行く彼は、振り返らないままやわらかな口調で応えた。
 アベリュストが王都に滞在する期間は短いとはいえないだろう。
 その間を任せられた代理が、グリークの跡継ぎである自分というわけだった。
 領地を離れ、仮住まいと称した屋敷を王都に構えて住まう者は多い。領地を持つほとんどの貴族がそうしており、グリークの現当主を含む他の六爵家の面々もそうだった。
 領主が必ず領地にいなければいけない決まりなどないのだ。
 そして普通は代理など置く慣習も必要もないはずなのだが、あいにくここサウラは普通ではなかった。
 その代理がグリークの息子というのにも意味がある。
 サウラに公式な代理を置くとすれば、《無名の騎士団》の直系しかありえなかった。あるいは、現実的には不可能ではあるが、国王その人か。
 ロヴァニア王国の若き君主は、緑の館ではアベリュストの遠縁の道楽貴族で通っているらしかった。
 身分を隠した国王の妙に馴染んだ立ち振舞い、それを自然に受け入れるディアスの当主や使用人、そしてあの少女が寄せる信頼。
 リオヴェルトがサウラにここまで親しんでいたことをファーンは知らなかった。
「で、どこに行くんですか」
 半ば意地で行き先を問わずにいたのだが、外に連れ出されてさすがに声をあげる。抑えていた苛立ちが声に滲んでいたかもしれない。
 かまうもんか、といった気持ちで背筋の伸びた後ろ姿を睨みつけてやる。気持ちのいい緑の庭にごまかされてやる気にはならない。
 と、そこで初めて微笑を含んだ青い瞳が肩越しに振り向いた。
「あそこまで」
 すっと伸びた指先が示したのは、緑の館を抱く塔の片側だった。
 塔の扉の前に立つと、
「《光る森》の樹の枝で作られた錠です。ぼろぼろなんですけどね、人の手で破られるものではありません」
古い木製の錠に鍵を差し込みながら、アベリュストが言う。
「《光る森》の? 賢者の樹ではなく?」
「《光る森》を出たとき、彼はまだ小さな苗木でしたからちょっと無理です」
 ちなみにうちの門の錠も同じものなんですよ、と笑って、彼は鍵をファーンに手渡した。
「国王とディアスの当主が持つことになってるんです。お願いしますね」
「できる限りのことを」
 かろうじて返答し、ファーンは手の中にある鍵に視線を落とす。
 鉄製の黒い鍵は、見かけによらず重い。胸の深い部分が震えるのを自覚して、ファーンは鍵を握り締めた。
 ――ここは、伝説が当たり前のように存在する場所なのだ。
 塔の中は暗かった。隙間から細く差し込む光で、アベリュストの背中がようやく確認できる。
 冷えた壁に手をついて、狭い階段を慎重にあがっていく。
 と、いきなり視界が白さにはじけた。痛みを感じる刺激に顔をしかめて思わず手をかざし、少し遅れてそれがまばゆい日の光であることを知る。
 日の光以外のものに気づいたのは、さらにその後。
 逆光の中に溶けてしまいそうな淡い金髪。冷たくはない、けれど温度を感じさせないような見慣れた水色の瞳。
 階段の先にある扉を開け、どこかいたずらっぽい表情で見下ろしているのは、リオヴェルト・ルイス・アル・ローヴァンだった。




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