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 賢者の樹の枝を一差し頂きたい人がいるらしい、とリオヴェルトは言った。それ以上のことはわからないと。
 右の塔は、染みついた独特の埃っぽさは抜けないものの、手入れの行き届いた清潔な部屋になっている。女官長の日々の努力の賜物である。
 家具は机とソファと棚しかなく、棚には分厚い本が並べられていた。壁を飾るのは、複数の小さな絵画。鮮やかに輝く緑の森。細く小さな樹。深く広がる悲しい影。溢れる至福の光。紡がれる歌。節々に違和感を覚えることはあっても、それがなにを指すのかわからないロヴァニア国民はいないだろう。
 細部まで丁寧にかつ伸びやかに描かれたのは、復興の伝説。
「ファーンはここにあるすべての物に目を通しておくこと。知るべきなのは伝説ではなく、歴史だからね。王宮にあるのは写本だし、所々違ってるんだ」
 壁と本棚を指して言うと、リオヴェルトはカーテンを閉めた。この部屋にとって強い日差しは毒なのだ。室内がほのかに暗くなる。
 配置の妙で狭さを感じさせない部屋でも、四人もいるとさすがに窮屈になった。暗いと余計に相手との距離が近いような気がして、いたたまれなくなってくる。
 リンディとしてはできれば壁のあたりにでも下がっていたかったのだが、リオヴェルトが許してくれなかった。ぽんぽんと軽く頭を撫でた優しい手に、拒む余地もなくソファに導かれる。
 正面に座るアベリュストと視線があうと、彼は宥めるような微笑を浮かべた。それから机に置かれた書類を手にして、目で追い始める。
 リオヴェルトはリンディの隣に腰を降ろし、行儀悪く頬杖をついた。一度考え込むように目を伏せてから、苦いような表情を浮かべているファーンを見る。
「秘密の通路というやつがあるんだよ。そこから来た。彼女はね、《(うた)だよ」
「なんだって?」
 息を呑んで、ファーンが表情を改めた。真剣になると、その陽気さで中和されていた鋭さが剥き出しになる。
 群青の眼差しに射抜かれて、リンディは身を竦ませた。身体から熱が引いていく感覚が蘇り、息を止める。そんな自分に泣きたくなる。
 風に煽られ、小さく揺れるカーテンの裾が視界の隅に映った。あの位置にいたって、きっと変わらないのに。
 膝の上で握り締めた手が震えたことに、気づいたのかもしれない。少し狼狽したように、
「いやその、悪い」
言うと、ファーンは顔を隠すようにして額に手を当てた。そのまま前髪をかきあげ、ややして息を吐き出す。
 俯いたままの表情は、陰になってやはりよくわからなかった。
「お前なぁ、いや、今はいい。後で言ってやるから文句ぐらい聞けよ、リオン」
「わかってるよ」
 リオヴェルトは、意外なほどに真面目な顔で了承した。
 ――血の絆も契約も要らない。偉大なる賢者の樹の寵愛を受ける者。いつこの世に生を受けるのかだれも知りえない、類稀な存在。大樹は親しみを込めて《詩》と呼び、出現を待ち続ける――…。
 その名を自分が受けていいのかと迷うことはあっても、自覚はあった。自覚があるからこそ、いまだに非公開でいられる理由を考えると苦しくなる。
 穏やかな表情とやわらかな物腰がそうとは感じさせないが、リオヴェルトには大胆で強引なところがあった。一見突発的に見える言動の多くは彼の計画の線上にあり、準備はいつの間にか進められているのだ。確実に。
 まるで無関係かと思われていた事象が一つに結ばれるその時まで、それと悟らせることなく。
 常に傍にいなくても、リンディは知っている。なぜなら、彼には彼にしか聴こえない声が届くから。彼には守るべきものを守ろうとする決意があるから……。
 もう一度吐息をついてから、ファーンは顔を上げた。もう表情は元に戻っていた。
「《無名の騎士団》くらいは知ってるんだろうな」
「知らなかったら大変だよ」
「そうだな」
「リンディ、そこで落ち込まない」
 再び、ぽんと頭に感じた優しい衝撃。はっと隣を見上げたときには、リオヴェルトは戻された書類に手を伸ばしていた。アベリュストに視線を流し、淡々と書類を確認する。
「足りない部分などありましたか?」
「いえ、とりあえずはこれで十分かと」
「では、途中で気がついたことがあれば宰相にでも」
「うわ、宰相殿ですか。怒られそうで怖いんですよね」
「宰相の方が身構えていると思いますよ」
「やっぱり怖いですねえ」
 一応国の一大事であるはずなのだが、応答するアベリュストは気楽な様子だ。
 いや、そもそも重苦しい雰囲気など最初から部屋のどこにも落ちておらず、なにもわからない現在深刻ぶってるのは宰相だけだよな、とあっさりした口調でファーンがだれにともなく呟くのだった。
 リンディはといえば、大樹に害をなそうとする者がいると知って心は冷えたが、ここでまた取り乱せば大樹の悲しみを深めることになるのでなるべく深く考えまいとしていた。情報の少ない時は想像が悪い方へと向くだけだということがわかっていたし、なによりリオヴェルトへの信頼がある。
 だから、今はただ、強くあるためにはどうすればいいのだろう、と自分に問いかけている。何度も。

 ふいに軽く首を傾げて、アベリュストがリオヴェルトに質問した。
「怒ってませんでした?」
「カンカンですね。説得するのに苦労しました」
「他人事だと思ってるでしょう。この先だれに矛先が向けられると思っていますか?」
「ぼくじゃないことは確かでしょうけど」
「じゃあ、ファーンのせいということにすれば丸く収まりそうですね」
 堪えきれないといった風に、とうとうアベリュストが吹き出した。
「やめてくださいよ、大人気ない」
 胡散臭そうな表情で二人を眺めていたファーンが心底嫌そうに唸る。
「ほんの八つ当たりですよ、代理殿」
「ということで、その丸く収まる方向でお願いします」
 悪びれもせずに堂々と開き直るディアスの当主と、涼しい顔で面倒を押しつけるロヴァニアの国王。
「この仕事を引き受けたことを後悔した」
 投げやりに言って、ファーンはソファにぐったりと身を沈めた。
 話題の宰相については、おぼろげながらも記憶に残っている。勤勉実直を絵に描いたような。
 自問自答を繰り返しながら一連のやりとりを見ていたリンディは、思わずくすりと笑みをこぼしてしまった。途端に周囲の空気が変わったような気がして、戸惑う。
 不謹慎だっただろうか。
 リオヴェルトを見上げると、少し驚いたような顔をしていた彼は仕方なさそうに笑った。ますます困って、リンディはアベリュストに視線を移す。
 アベリュストの笑顔も、苦笑に近いように見えた。
「心配いりませんよ。怒ってませんよね、ファーン」
 ファーンは頷き、すぐに思い出したように仏頂面を取り戻して、リンディには、と付け加えた。
 よくわからないものの、悪いことをしたわけではなかったらしいことだけは理解できて、リンディはほっとする。直後、のほほん、と罪の欠片もなさそうな口調でアベリュストがとんでもない発言をした。
「私とファーンが残ってリオンが王都へ、という選択でもよさそうですね」
 少し沈黙した後、リオヴェルトは目の端でアベリュストを睨んだ。
「あなたが宰相に説明してくれるなら、それでもいいですけどね」
 水色の中に一瞬よぎった色を見つけて、リンディは動転する。
 あまり見られないことであり、気づく者はさらに少ないらしいのだが、怒ると彼はそういう眼をした。氷に似た瞳なのに、冷えるのではなく熱くなるのだ。
 同時に気づいたはずのアベリュストには、慌てた様子はない。
「それは勘弁。悪い冗談でしたね、ごめんなさい」
 さらりと詫びると、席を立った。
「そろそろお昼ですよ。二人ともお疲れでしょうから、午後はゆっくりしてください。私は仕度をしないとね」
 そして、はらはらと見守るリンディの肩に手を置いて優しく笑いかける。
「私が傍にいなくても忘れないでください。リンディ・エル・ディアス、あなたの名前を。大丈夫、リオンがいますから」
 翠の瞳が小さく揺らいでアベリュストを見返した。心細いと、言ってはいけないと思っていた。思いを出してはいけないと。
「そんな顔をしないで。同じ空の下にいますから、安心なさい。手紙も書きますね」
「……はい」
 答えて、髪を撫でたその手をリンディは握り締める。
「頼みますよ、リオン」
「はい。シ・ア・ランスをよろしくお願いします」
 深い眼差しをしっかりと受け止め、リオヴェルトは応じた。
「エル・ディアス?」
 しばらく間をおいてから、確認するように低く呟いたのはファーンだ。自己紹介の時にどう名乗っていいのかわからなかったので、上の名前しか伝えていなかったことをリンディは思い出した。
 本当になにも聞かされていなかったらしい彼に同情したい気分になる。賢者の樹に関わることとはいえ、黙ってサウラまでついてきた彼はいい人に違いなかった。
 そんなファーンに向かって、アベリュストは嬉しそうに顔をほころばせた。繋いだ手を引き、肩に置いていた手を頭に回し、リンディを抱き寄せるようにして青い目を細める。
「私の子供です」
 ファーンが目を剥いた。
「――はあ!?」
「養子ですよ。いくらなんでも、十歳で父親になれるわけがないでしょう?」
 すかさず返し、アベリュストは無邪気に笑っている。随分と楽しそうだ。
 引き寄せられるままの格好でいると、アベリュストの暖かさが肌に伝わってくる。ファーンには悪いと思いつつも、なんとなく懐かしさを感じていつしかリンディの心はほぐれていた。
 昔は、リオヴェルトがこんな調子でからかわれていたっけ。
「今本気で疑ったね、ファーン」
 成長したリオヴェルトは、横からさりげなく追い討ちをかけている。
「お疲れな俺にその仕打ちかよ」
 呆れたような表情でファーンがぼやいた。
「お前らがサウラに残って俺が王都に帰る選択に変更させろ。宰相には侯爵から説明してもらう。だれがこんな分厚い本を読むか。リオン、お前が要約して俺に教えろ。違う部分は題と巻数とページ数を書いておくことを忘れるなよ」
 おもしろくなさそうにずらずらと言い立てると、彼も腰を上げた。
「あなたが出てくれないと鍵をかけられないですよ。精神的に非常に疲れた俺は、今すぐゆっくりと昼寝でもしたいです」
 群青の視線をちらりとアベリュストに投げると、さっさと歩き始めて扉の向こうに姿を消してしまった。
 和んでいる場合ではなかったのかもしれない。悪ふざけがすぎて怒らせてしまったのではないだろうか、とリンディは心配になったのだが、アベリュストが微笑まじりで
「大丈夫ですよ」
呑気に言い、リオヴェルトも笑いながら頷いた。
「ほら、鍵を置いていかなかっただろう?」
 会議――と言ってしまっていいのか微妙にためらわれる時間は、こうしてつつがなく終了した。




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