back/ site top/ next




 たぶん、けっこう長い間そうしていたと思う。だけど次第に落ち着いてくるのに伴い恥ずかしさが蘇ってきて、今すぐにでも離れたいと思うのに次の行動に移ることができなかった。
 ぐずぐずしていると、藤井くんが声をかけてくる。
「で? いつまでこうしてるんだ?」
「…う、すみません」
 俯いたまま、離れた。目が腫れぼったくなってて、きっとみっともない顔になっている。
 苦笑する気配を感じた。
「いや、そうじゃなくて」
 おでこにキスしてくる。そして、首筋に。
 え…、
「えええええぇえっ!?」
 驚きのあまり頭の中にあるものすべてがぶっ飛んで、ずさっと大きく後退りをする。妙に落ち着き払った態度で、藤井くんが言う。
「なんだよ、その反応」
「何って、何って、だって…、その、いろいろと早すぎるって!」
「別に早くねぇよ。それに、お前を待ってたら干支が余裕で一巡するだろ」
 じりじりと近づいてくる。言ってることは強引極まりないけど、今度は無理に触れてこようとはしない。私はひたすら逃げる。
「じゃ、じゃあ、干支がバトンタッチする期間くらいは」
「待てるか、バカ」
 呆れたように息を吐き出す。…怖いという感情はもうなかった。いや、違う。
「だって、おかしいよ。駄目だよ、そんなの」
「何が駄目なんだよ、おかしいのはお前だ。俺はおかしくない」
「…絶対、おかしい」
 さっき自分でおかしくなってるって言ったくせに。冷静におかしいってどういうことだ。
 私は頑固に言い張った。もちろん、私もおかしい。顔もまともに見返せないほど恥ずかしいし、膝が震えるほど動揺している。
 ――たぶん、なくなったというのではなくて、もっと別のものが怖さより大きくなっただけだと思う。けど、電車を乗り換えるのとは訳が違うんだから。とにかく流れで部屋の空気からしておかしくなってるから、こっちもおかしくなってるから、ちゃんと考えないと。
 どこでもいい、冷静になれる場所へいったん避難して……、
「あっ、そ、そうだ、お風呂っ!」
 言った瞬間、一気に青ざめる。壁に頭を打ちつけたくなるくらいに後悔した。いくら避難所だからって、この状況で何を口走ってるんだ私。
「ち、ちがっ、今のは違…っ」
「じゃ、そういうことで。先行ってくる」
 慌てて訂正しようとしたけど、素の顔で思い切り無視された。あっさりと身を引いて、部屋を出て行く藤井くん。
 ちょ、ちょっと待て! 待って!!
 もう滅茶苦茶だ。また変なことを言ったらどうしようとかどう説明すればいいんだとか、頭の中が洗濯機の中の洗い物並に回転してパニック頂点で、私は藤井くんの後ろ姿を見ながら口をパクパクと動かすことしかできなかった。
 藤井くんは、ちらりとも振り返らなかった。


 …この隙に逃げるとは、考えなかったんだろうか。
 出産中の妻を病院の廊下で待つ夫のごとくしばらく部屋をうろつき回り、疲れて何気なくベッドに腰を降ろしてからそこが「ベッド」であることに気がついてすぐに飛びのき、居場所がなくなった私は、台所で後片付けなどしている。
 最初ぬるかった水は、使っているうちに冷たくなっていった。洗った食器を次々に水に潜らせる。流れ落ちていく汚れと白い泡。
 なんで私はまだここにいるんだろう。
 お皿の水を切っていると、ドアが開く音と同時に後ろから熱気と湯気が流れ込んできた。反射的に振り向くと、タオルで頭を拭きながらグレーのスウェットパンツをはいた藤井くんが脱衣所から出てくるところだった。
 お皿を手にしたまま目が合う。と、どういうことなのか藤井くんがぷっと小さく吹き出した。まるでここに至るまでの挙動を見透かされたようで、小馬鹿にされたようでおもしろくない。
 睨んでやろうと思ったけど、上半身裸の彼を直視できなくてどぎまぎして目をそらしまう。これまで何度も海やプールに一緒に行って、見慣れてるってほどでもないけど、意識したことなんてなかったのに。
「出たけど」
 見ればわかることを言われて、それでもお皿を落としそうになるくらい動揺する。そんな私には構わず、彼は冷蔵庫を開けてお茶を取り出しながら言った。
 悔しいくらいに至って普通だ。
「湯が入ってるから止めておけよ」
「うっ、うん、…ひゃっ!」
 お皿を置いて、さりげなく距離をとって彼の横を早足で通り抜けようとして――突然腕を掴まれて悲鳴を上げてしまった。
 構わずに、藤井くんは至極真面目な顔をして身を硬くする私をじっと見つめている。反射的に振り仰いでしまい、一度目を合わせたらヘビに睨まれて石になった人のように動けなくなってしまった。
 石鹸のやさしすぎる香りが顔に似合わない、真面目な顔をするほどに目つきが悪くなる、と現実逃避のために悪口を脳内で並べていると、おもむろに口を開く。
「三十分」
「…へっ?」
「三十分しか待てない。過ぎたら迎えにいく」
 言ってから手を離し、返事を待たずに踵を返す。
 私は、しばらく呆然と藤井くんの背中を見つめていた。…またこのパターンか。すぐに我に返り、思わずその場にへたりこみそうになる情けない膝に渇入れしつつ脱衣所に入った
 迎えにいくって、迎えにいくって…。
 
 かごには、黒のタンクトップと短パンが置いてあった。たぶん、私の着替え用に置いてくれたんだと思う。
 Tシャツとスウェットパンツじゃ、ずるずるのお代官様になるだろうし…ちょっと笑ってしまう。相変わらず妙に気の利くやつ。
 お風呂を覗くと、まだお湯を張っている最中だった。洗面所には新しい歯ブラシが置いてあったので、先に歯を磨くことにする。
 藤井くんはシャワーを浴びただけだったのか。わざわざお湯入れてくれたんだ。ぼんやりと考えながら歯を磨いていたら、お湯がいっぱいになった。

 重くて白い蒸気がたちこめる。お湯の温度はやや熱めだけどちょうどいい加減だった。
 湿気は苦手だけど、お風呂だけは例外で好きだ。匂いとか全体的な空気とか。
 身体を洗ってお湯につかり、思わずほっと息をついてバスタブにもたれかかる。けど、すぐに背筋を伸ばして飛び上がった。
 …ほっこりと和んでいる場合じゃない。どうしよう。いや、どうしようと言ったって、今こうしてお風呂に入ってるんだしどうしようもない。
 だって、…うわっ、どうしよう。
 一人で青くなったり赤くなったりしながら、罪もない壁をべしべしと叩く。お湯が波立つ。音が妙に響いた。
 藤井くん家には入り浸ったり疎遠だったりしていたけど、当然のことながらお風呂なんて入ったことがない。彼とこんな風になるなんて、思ってもみなかった。
 藤井くんのことは嫌いじゃない。嫌いじゃないというか、はっきりと言うなら、好きだ。だけど、男女とか関係なしにただ一人の人間として自分にとっては大事な人なんだと、ずっと私は思っていた。
 嫌なわけじゃない。
 ただ傷つくのと傷つけるのは嫌だし、あまりにも突然で、失うのが怖くて、今までの関係を崩すのが怖くて、頭の中がバナナミックスジュースも足元に及ばないくらい混乱してるけど…いや、だからこそ、時間をかけて考えないと、また須藤さんみたいなことを繰り返してしまうんじゃないだろうか。
 たった一度、初めて自分を理解して受け止めてくれたと思った人に裏切られただけで…しかも十年ほども前の話なのに、いまだにしつこく引きずっている。藤井くんがそいつと同じように裏切るとまでは思っていないけど、このまま流れに任せて寄りかかって、そしていつか駄目になってしまった場合のことを考えると胃の辺りがすうっと冷える。
 そして、怖さに身がすくんで動けないようではまた傷つけてしまうことになるのだから。
 けど…なんだかんだと言って、私は結局、自分のことしか考えていないんじゃないだろうか。あぁ、自己嫌悪だ。
 溜息をついて、ぺち、と壁をもう一度叩く。そのまま、こつん、と額をぶつけた。痛い。頭に響く。
 …嫌じゃない。驚いたけど、たぶん嬉しい気持ちもどこかにあるんだと思う。時間はあったのに、この部屋から立ち去ることはできなかった。
 それだけは、ただ確かなことで。
 部屋で待ってる藤井くんは今何を考えているんだろう、と思ったところで、はっと我に返った。うわっ、やばい、物思いに耽りすぎて三十分以上経ってるかもしれない。
 慌てて立ち上がった瞬間、白い湯煙が立ち込めていた世界が暗くなってぐらりと体が傾いだ。



+back+  +Line-top+  +next+