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 ……傷つき傷つけるのは、あるいはどうしようもないことなのかもしれないけど、壊れたものは二度と元には戻らない。
 息を塞ぐ夏の宵とオレンジの灯に照らされた顔もまた、この先忘れることはないだろう。
 でも、たぶん、蒼い薄闇には辛いものも嬉しいものも潜んでいる。どちらも塗り変えることができない代わりに、微妙に重なりながら交差しながら。

「ぅん…」
 ゆらりと緩慢に浮上する意識の中で慣れない肌の匂いを感じて、それで目が覚めた。とてつもなく体が重い。今、何時頃だろう。
 エアコンのおかげで空気そのものは乾燥気味だと思うけど、不思議と部屋を覆う闇はしっとりとしているように感じられる。
 真っ暗だったけど、しっかりと抱き締められていて、私の方もまるでぽかちゃんのように隣の人に寄り添っているのはわかるので動揺した。寝起きでいきなりこれは心臓に悪い。
 あのままずっと寝ちゃってたんだ。目から光線が出そうな思いで…いや出してどうする、恥ずかしさの中で恥ずかしさを洗うがごとく自虐的に小ネタを無理やり捻り、顔から火を吹きそうな思いをしながら昨夜の出来事を思い出す。
 夢みたいな怒涛の展開だったけど、夢じゃないことはよくわかってる。ただ、なんとなく確認したくなって、腕をずらして彼の体にぴたぴたと手のひらを当ててみた。
 肌の硬さも骨の太さも力の強さも意思の通し方も感情の表し方も、何もかもがまるで違う。自分とは別の人間ということだけじゃない、この人は男の人なんだ。当たり前と言えば当たり前なんだけど。
 …藤井くんは私のことをよく知ってて、私も藤井くんのことをよく知ってると思っていた。
 藤井くんが私を知ってるというのはその通りだと思うし、実際昨夜だって、その、なんでわかるの?と思うくらいいいように翻弄された気がする。それが嫌だということはなくて、藤井くんに応えられるものが自分の中にあってよかったと今は思っている。そう思ったことをずっと大事にしていきたいとも思う。
 ただ…私の方は本当に藤井くんのことをよく知ってたのかな。知ってるのかな。そんなことを、ぼんやりと考えた。
 だってどう考えても、寄りかかってる状態には変わらないと思うから…。
 と、頭の上から声がかかった。
「大丈夫か? 温度は上げたけど寒くないか?」
「えっ、あ、ごめん。起こしちゃった」
 起こさないよう注意してたつもりだったのに、結局起こしてしまったようだ。焦って見上げる。まだ暗さに目が慣れていなくて顔も見えないけど、穏やかな気配を感じられたので安心はした。
 ただ、やたら気恥ずかしい。
 とにかく、ちゅんちゅんと鳥のさえずりが聞こえちゃうような眩しい朝の光の中とかじゃなくてよかった…そんな爽やかすぎる展開に置かれたら、恥ずかしすぎて悶え死んでしまう。ついでにコーヒーとトーストで一緒に朝食なのかとか余計なことまで考えてしまって、赤面した。
 果たしてそれが本当に爽やかというものなのかどうかという問題はともかくとして。…あぁ、真っ暗でよかった。
 藤井くんに幾つだお前と突っ込まれるまでもなく、そんな年齢じゃないことくらいわかってるけど、長らく友達だった人と一線を越えた時、どんな顔をすればいいのか改めて迷ってしまう。
「いや、別に。で、体調は? …さっき咳込んでたぞ」
 あたふたする私とは対照的に、藤井くんは相変わらず落ち着いた調子を崩さない。気になるらしく、重ねて問いかけてくる。私は、ぶるんと首を振った。
 けれど、この暗闇では相手も見えないだろうことに気がついて、慌てて返事をし直す。
「あ、それはいつものことで…クーラーって乾燥するから。でも、なかったらたぶん暑くて眠れないよ。やっぱり起こしちゃったんだね、ごめん」
 闇の中では、お互いの声が妙に響いて聞こえる。
 いつかわからないし咳をした自覚もないけど、エアコンの温度調整をしたということは、一度はベッドを離れたということだ。気がついてみれば、藤井くんはスウェットのパンツをはいていた。見えないけど、たぶん。
「お前に起こされたんじゃないよ。服着るか?」
 よしよし、といった感じで私の頭を撫でながら藤井くんが聞いてくる。あー、擦り寄りたくなるくらいにおっきな手って危険だな。
 だるくて重くて起き上がれないという理由もあったけど、タオルケットを被ってるし、暗くて向こうも見えないだろう、という横着な安心感に負けた。着たいという気持ちより、このまま動きたくないという気持ちが勝ってしまう。
「ん…あんまり動きたくないかな。寒くないよ、あったかくて気持ちいい」
 藤井くんが。でもそこまで言えなくて口ごもる。何を言おうか迷って、とっさに全然関係ないことを口に出していた。
「そういえば、ケーキ食べてないね」
 ていうか、こんなことがすんなりと口に出てしまうくらいなんだから、実はけっこう気にしていたに違いない。いくらなんでもこだわりすぎだ、私。
 こうなってくると、こだわりポイントが幸せのお裾分けの部分にあるのかケーキそのものにあるのか怪しくなってくる。
 さすがに藤井くんも、気が抜けたように苦笑した。
「明日食べればいいよ」
「うん」
 私は素直に頷く。チーズケーキとゼリー、楽しみだな。だけど、生クリームは当日に食べた方がいいんだよ。だって、ショートケーキだもん。しつこく繰り返すけど、ショートだもん。って、この由来説は都市伝説みたいなもんだったんだっけ。
 そこまで考えて、ついバカな想像をしてしまった。幸せ部分にも賞味期限があったら嫌だな…。
 同意はしたものの、一応付け足してしまう。
「でも、ショートケーキはその日に食べた方がおいしいんだよ」
「…ケーキは逃げないだろ。どうせ同じもんを食うんだから、次買った時にその日中に食えばいいじゃないか。それで納得しろよ」
 声に呆れらしきものが滲んでいる。むぅ、いくらブツは同じでも、次のと昨日のとは全然別物じゃん。言いだしっぺのくせに、わかってないんだなぁ。
 もしかしなくても、いついかなる時でも食い意地の張ってるやつだと思われてるんじゃないだろうか。しかもかなり偏った方向に…そりゃ確かに、お菓子関係は大好きだけどね。
 今さら美化してもらおうなんてこれっぽっちも思ってないし、期待もされてないような気はするけど、なんとなく憤慨だ。けど、ケーキにこだわってるんじゃないよ、とは断言できない微妙な後ろめたさがあるので、おとなしく納得するしかなかった。
 ふぅ、と息をつく。
 …まぁいっか。一緒に食べられそうで、よかった。
「いいから、もう寝ろ」
「…うん」
 素気ない口調とは裏腹にやさしい手つきで背中をぽんぽんと叩いてくれるのが気持ちよくて、私はまた目を閉じる。 喉も乾いてるけど、いいや、このまま寝てしまおう。
 まさしくぽかちゃん気分だ。恥ずかしいけど、こうしてくっついて触ってもらうのは好きかもしれない。
「藤井くんは? まだ起きてるの?」
 目を瞑ったものの気になって、私は小さな声で聞いてみた。至って普通に返事が返ってくる。
「寝てるよ」
「いや、寝てないじゃん」
 なかなか寝つかない幼稚園児ですかこいつは。脱力しながらも即反応せずにはいられない自分が恨めしい。藤井くんの体が揺れているので、声を抑えて笑っていることがわかった。
 つられてにすぎないけど、断じて乗ったわけじゃないけれど、私も笑ってしまう。笑いを伝染しあってしばらく二人して笑い合っていると、和やかな暗闇の中で程よく眠気が降りてきた。
 とろとろとした心地よいまどろみからより深いところに落ちていく途中で、言い聞かせるような少し真面目な声が聞こえた気がする。
「もういいんだよ。大丈夫だから、あまり悩むな」
「……ん」
 新手のサブリミナルか睡眠学習みたいな効果でもあるのかな、と意識の端っこで思いながら私は再び眠りについた。



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