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 食事を終えた頃には乾燥機に放り込んであった分が乾いていたので、洋服に着替え直す。残りの洗濯物はどうしよう。自分の分だけで他はほとんどやりっぱなしというのは気が引けた。
 迷った末に聞いてみる。
「残った分はどうするの? ついでだし、よかったら干しちゃっていいかな」
「助かるけど、外は暑いぞ」
「うん」
 というわけで了承がとれたので、ベランダに干しにいくことにした。起きてから何かと働いているのは、寝坊と心配させてしまったお詫びのつもりでもある。それに、たたむのは面倒だけど干す方は気持ちよくて好きだし。
 洗剤の芳香がする洗濯カゴを抱えながら、合宿みたいだなぁと思ってちょっと笑う。
 レースのカーテンをくぐりベランダに続く窓を開けた途端、空の濃青が目に刺さった。強い日差しが肌を灼く。昨日のような湿気はないものの、空気中に収まりきれずに暴走しているような熱はより厳しいかもしれない。
 起きてからそんなに時間が経っていないのでどこかで朝の気分を引きずっていたのだけど、とっくに午後になっていたことを忘れていたのを後悔させるような天気だった。
 この様子だと乾燥機を使わなくてもすぐに乾いたかもしれない。でも、やっぱり人の家で外に干すのは抵抗があるので藤井くん家に乾燥機があって助かったと思い直す。
 好奇心に駆られて下の道路を覗いてみたら、錯覚だろうか、ゆらゆらと立ち上る熱気が見えたような気がして目眩を起こしそうになった。あまりの暑さからか、人影も見当たらない。立っているだけで、体から水分が奪われるようにして汗が浮かぶ。
 もたもたしていたら、自分まで蒸発して干物になってしまいそうだ。洗濯物干しを楽しむ余裕もなく残りの作業を大急ぎで済ませると、私は逃げるようにして部屋に戻った。藤井くんは、床に転がって雑誌をめくっている。
 よほど観たい番組が見つからなかったのかテレビは消えていて、代わりに音楽が流れていた。
 耳によく馴染む、力の抜けたようなほわりとした女の人の声とゆったりとしたメロディ。
 一緒にいる時は喋っているかぼーっとしているかでテレビか無音か、ということが多いから音楽は新鮮に感じた。久々だと思う。
 そもそも藤井くんは洋楽好きなので、彼が聴く音楽のことはほとんど知らない。聞いてもすぐに忘れてしまうという、音楽方面の知識と才能が不足している私は詳しいこともわからない。けれど、いいなと思った。
 私は空になったカゴを降ろし、深呼吸をして冷えた空気を体の中に取り入れる。
「半端じゃなく暑かった…」
「ありがとう。…おい、擦ったら駄目だ」
「あ、うん」
 赤くなってひりひりする腕を半ば無意識でさすっていたら、顔を上げた藤井くんに注意される。手を止めたのを確認しながら、ちょっと見せてみろと言って彼は立ち上がった。
「暑いな」
 傍まで近寄ってきた藤井くんがふと気がついたように窓を見やる。カーテンを閉めて青空を締め出し、日光を遮断した。一気に部屋が薄暗くなり、ガラス越しで上半身に浴びていた熱が若干和らいだ。
 ただし、当然のごとく暗いままでは落ち着かない。
「ねぇ」
 電気つけないのと続けようとして、伸びてきた手に腕を取られて止まる。そりゃ確かに見せてみろと言ってここに来たのだからおかしくはないんだけど、この薄暗い中でちゃんと見えてるんだろうか。そっと抑えられた部分がどきどきと脈を打って騒がしさを増す。
 力を抜いて軽く握る手には余りがあって、嫌でもその大きさを意識させられた。
 こんな状況では安心を覚えるどころか胸がざわついて、どうにも困ってしまう。固まった私の内部では熱が自家生産されているに違いなかった。
 ゆるやかに流れる音楽の向こうであちー、と呟く声がする。
「すげぇな。冷やすか」
 彼の手が冷たく感じるのは珍しいことだ。私はわずかに身じろぎをする。いつもより冷たいから、その分熱く感じただけなのかも…などと苦しい言い訳を必死で捏造していると、藤井くんが心配そうに眉根を寄せた。
「痛いのか?」
「あ、ううん、もう平気。火照ってるだけだから」
 実際は表面だけでなく、頭の中から体の中心から隅々まで無駄に火照っていたかもしれない。自分の過剰反応っぷりが恥ずかしくて、私は照れ隠しに抗議をした。
「急に暗くするんだもん、びっくりした」
「なんか期待したか?」
 即座に返された言葉と笑みを含んだ眼差しに、心臓が灼き切れそうになる。腕を捉えていた力が強まったように感じて、慌てて自分の腕を取り戻した。
「しっ…してないしてない!」
 必死で首を振る私とは大違い、藤井くんは至って涼しい表情だ。
「そうか?」
 よく見てみれば、いつの間にかにやにやと楽しそうな笑みに変わっている。こ、この男…。
「ふ、藤井くんっ」
 からかわれていることにようやく気づいて、ついでにその余裕も憎らしくて、私は体を震わす。睨んでやろうと力を入れかけた瞬間、間近から声が飛び込んできた。
「俺はしたけどな」
「え、」
 言葉が奪われる。何かを言い返そうとしたけど、なんだったのか忘れてしまった。
 ――気がついたら唇が触れていた。
 羽のような、とはよく言ったもので、本当にそんな感触で一瞬だけ触れて、すぐに離れる。唇に伝えられた温もりが染み込む前に、藤井くんは元の位置に戻っていた。
 二、三度瞬きをしてから、ゆっくりと視線を動かして藤井くんを見上げる。目が合ったと同時に頬の熱さを自覚した。我ながら、一昔前の衛星中継を彷彿とさせるような反応の遅さに呆れる。
 遅すぎてタイミングを外してしまったから、怒ることもできなかった。
「普通はするだろ」
 部屋の電気をつけて人工の明るさを取り戻しながら、藤井くんがおかしそうに言う。なんでこの人はこんなにマイペースを貫けるんだろう。
「…するもなにも、いつも急なんだもん」
 いつも純情中学生みたいな反応しか返せなくて、余計に恥ずかしくなったりするのは藤井くんのせいなのだ。やっと口がきける余裕が戻ってきたので、苦情を申し立ててみる。
 藤井くんはただ笑うだけだった。


 夏の日は長いとはいえ、長居をするのもいいとは言えない。ケーキを食べて帰ることになった。
 昨夜の続きということで、藤井くんがアイスティを作ってくれるという。別に用意するのが面倒なので、私に合わせてくれてるんだと思う。
 飲み物は藤井くんに任せて、冷蔵庫からケーキを取り出しテーブルに運ぶ。そして箱を開けた瞬間、叫んでいた。
「山盛り夏果実ぷるるんグレープフルーツゼリーが、ない!」
「あぁ、忘れてた。夜中に小腹が空いたから、ちょうどいいと思って食った」
 カラン、と涼しげな氷の音をたてるコップを二つ置いて、すぐ隣に腰を降ろしつつ藤井くんは悪びれもせずにけろりと答える。その距離の近さには気がつかずに、私は溜息をついて彼を見返した。
 私の中では、もう一度部屋が暗転するくらいに衝撃の事実だ。
 持ってくる時になんか軽いなぁとは、確かに思った。なんでシールが破れてるんだろう、とも思った。
 思ったけど、まさかこんなことだったとは。ていうか、今まで全然素振りがなかったけど、文句言われるとは思わなかったのだろうか。
 そりゃ、夜中に小腹が空いたらプリンかヨーグルトかゼリーがお約束だと固く信じる私は「ちょうどいい」には賛同するけど…それはそれとして、忘れてたって、あんまりだ。
「半分こして食べるの楽しみにしてたのに」
 未練がましくぶつぶつとこぼしながら取り分ける。藤井くんの前にはショートケーキ、私の前にはチーズケーキ。あぁ、一日経ってもおいしそうだな。
 香りの衰えもないようで、部屋に甘い匂いが広がっていく。
 藤井くんの前に置かれた小さな苺ショートケーキの図は、大人の席に用意されたお子様ランチ程度には不自然というか変なギャップがあった。一口で食べられてしまいそうだ。
 ないものは仕方がないというのに、私も大概往生際が悪い。
「明日食べればいいって言ったくせに」
「悪いな、あれはもう食った後だ」
 さらっと言われて唖然とする。…今、音楽まで歪んだ。絶対。
  「じゃあ、なんであの時そう言わなかったの。お誕生日ケーキなのに」
 あぁそういえば、と、たった今思い出しましたといった風情で藤井くんが呟いた。ということで、彼の頭からは丸ごとすっかり削除されていたことが判明する。ていうか、そもそも私がここに来た目的は料理修行お誕生日記念バージョンの決行だったんだけど…。
「ケーキが残ってるから一緒に食べられるし、支障ないんじゃないか? …夜中に喧嘩したい物好きなんていないぞ。言ったらお前、おとなしく寝なかっただろ」
 で、軽くあしらわれてしまった。う、ずっと体調の心配をしてくれていたことはわかってるので、この点においては強く出られない感じ。
 でも支障ないって…。仕方なく無言で恨めし光線を送ったけど、またしても受け流される。
「怒るなよ。また今度買ってくるよ」
 次とかまたとか平気で言う。私は短く息をついた。
 通常なら許そうという気になっただろうけど…。火に油とまではいかないけど、まったくよろしくない返事だと思う。
 とりあえず一口丸呑みはしないらしく、視界の端では藤井くんがさっくりとショートケーキを切り崩していく。



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