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 ゆるりと流れていた曲がアップテンポのものに切り替わる。夏の海に光が弾けたような、バカンスにでも出かけたくなるような爽やかな曲なんだけど――、と、そこで嬉しくない連想が働いた。
 バカンスと言えば夏休み。夏休みといえば夏期休暇。…『むっ』から『むむっ』の状態に昇格だ。いや、よくない方向なんだから降格なのか。
「またって言うけど、藤井くん、次の週末から一週間以上帰省するんでしょ。戻ってくる頃にはきっと秋向けのお菓子に変わってるよ」
 実家の愛犬に会うために、藤井くんは夏と冬と年二回は必ず帰省する。今年は就職したばかりの妹が気になると言っていた。ちょうど仕事の都合もついたから、地元の友達にも会って長居をするとかなんだとかで、お盆に合わせて久々に長めの夏期休暇を取ったとも言っていた。藤井くんの会社も私の会社も、六月から九月の間で好きな時に取れというところなのだ。
 ちなみに私の夏休みは、事務島で予定と順番とで調整した結果今年は九月になった。お盆一斉夏休みの会社にいる須藤さんと休みが合わなかったから、どうしようかと話していたのはつい先月のことだ。
 部屋はちょうどいいくらいに涼しいものの、この調子でエアコンにもう少し頑張ってもらって、もやもやと湿気がこもる胸の中までドライ仕様で冷やしてもらいたいな…。
 私はやさぐれ気分でチーズケーキにフォークをぶっ刺した。人のことを鈍いとか抜かしてたけど、そっちの方こそ鈍い。
「幸せ分けてくれるって、藤井くんが言ったのに。なのに、なんかどうでもよさそうだし。一人で食べちゃうし」
 ぱくり、とチーズケーキを頬張る。期待を裏切らず、すごく濃厚でまったりしてておいしかった。音楽より食べ物、甘いものを口に入れたら心も鎮まってくる。
 ケーキ、というかゼリーがないこと自体は別にいいと思う…あんまり強く言えないけど、たぶん。妙に気が回る藤井くんがそこまで気にしてなかったことということは、わかってないどころか心の底からどうでもいいと思っていたということだ。
 そして、やたらとこだわる私は相当心が狭い。
 自分にとって大事なことが相手にはそうじゃなかったからって怒るのは勝手だとわかっていても、本当に嬉しかったことを共有できないというのが少し寂しかった。それだけなのだ。
 ちらと横目で伺うと、藤井くんは困ったというか、何を言おうか迷っているような考え込んでいるような、彼にしてはなんとも珍しい複雑な表情をしていた。
 瞬間、私の苛立ちはしょぼんとしぼんで、代わりに得体の知れない罪悪感が薄く広がる。いざそんな顔をされると、いくら思い入れがあったからといって、デザートをひとつ食べたくらいでそこまで深刻にさせるのが申し訳なく思えてきた。
 そんなにわかりやすい小心者なら最初から流しておいた方がいいんじゃないかという話は今更だ。困ったの返り討ちにあった私は、ケーキをつついたりコップを手で包んでみたり揺らしてみたり、落ち着かなく手を動かした。
 だいぶ薄まってしまっているアイスティー。水滴で濡れて、冷たい。溶け始めていた氷が、かすかな音をたてて崩れる。
「…やっぱいい。一緒に食べられる、でいいよ」
 どうにも決まりが悪くて若干膨れ面になってしまったのは台無しのような気がしながらも、私はついに降参した。

 が、いまいち反応が鈍い。妙に気が回るところがあるとはいえベースは物事にあまりこだわらない大まかな人だし、始終関心が薄いんだろうか。大いにありえる。
 ということで、いっそ何ごともなかったということに…と思いかけて首を振る。だめだ。やっぱり何か言ってくれないと困るよ。
「ねぇ」
 ささやかな葛藤の末、ちょい、と控えめにつついてみると、やっと視線が流れて私に向いた。
「あぁ、いや…」
 意味のない返事をしながら、藤井くんは私を引き寄せる。至って自然な動作で抱き込まれたので、上がった心拍数を気にしながらも流れに任せた。
 まだ慣れないせいなのか、ここに辿りつく前は面映くて逃げ出したくなるような衝動から著しく挙動不審になってしまうくせに、一度取り込まれてしまったら動けなくなる。
 この場所があたたかくて居心地のいいところだということを、私はもう知っていた。溜息と一緒に力も抜けていく。ゆっくりと上下する胸に素直にくっついた。
 音楽より近くに聞こえる鼓動は、意外なほど早まっていた。何か別のことを考えているのか、どうも上の空っぽい気配がするんだけどな。
 心臓だけがこっちを向いてくれてるようで、ほんの気持ち分だけ擦り寄った。すると、無意識のように手が動いて私の髪の毛を梳き始める。時々戯れで指に絡められ、つんと軽く引っ張られるんだけど、実はそのわずかな刺激がなかったら気持ちよさのあまり眠ってしまっていたかもしれない。
 身を預けたまま、しばらく待つ。けど、なかなか次の言葉は訪れない。どうしたのかな。
 藤井くんは私みたいに意地を張って言葉を失くすタイプでは決してなく、言いたいことを言いたい時にストレートに言えるような人だ。だからこそ、こっちの気も知らないで悪かったの一言で済ませられるもんかと意固地になって、食い下がろうとしてたんだけど…さっきから様子が変。
 そっと上の方を伺ってみる。と、ちょうど彼の方も私に目を降ろしたところだったようで、妙なタイミングでかちりと視線が合ってしまった。
 表情を見てから言うことを考えようと思ったのに。思わず視線を泳がせると、藤井くんがいきなりくくっと肩を震わせた。ちょっと苦い顔をして笑っている。
 すごく変。訳がわからなくてびっくりして、私はつい正直な感想を率直に述べてしまう。
「…藤井くん。怖い。顔じゃなくて」
「うるせーよ」
 いきなり即答。解凍でもされたのかと思うくらいに反応が早かった。…とはいうものの、口と態度が合ってないというかなんというか。
 額に唇を寄せられて、胸の中が炭酸でも弾けたようにさわさわと騒がしくなる。こそばゆいけど嫌な感覚ではけっしてなくて、表情に困った。
「藤井くん?」
「…お前、最近ずっとおかしかったろ。心配した。けど、俺には何の資格もなかっただろ? あの時も、ケーキをやることくらいしかできなかった」
 ほんの昨日のことだ。暗くなりゆく夕暮れの中、ケーキを持って一緒に歩いたことを思い出す。少し離れていたし、昨日までは昨日までの距離が心地いいと思っていた。だから、そんなふうに思っていたなんてわからなかったし、想像もしなかった。
 私は自分のことで精一杯で、たぶん自分のことしか考えていなかったから。
「俺だって全然幸せじゃなかったしな。お前の顔を見たら、別れてラッキーとは単純に思えねぇよ。もどかしくて悔しかった。守りたいやつが目の前にいるのに、青い顔をしてしんどそうなそいつを見るだけで何もできないんだ。けっこう辛いぞ」
 穏やかに言うものだから、余計にずんと響く。私にとってはとても印象深い大事にしたい思い出なんだけど、藤井くんにとってはまるで別というか逆の意味をもっていたんだ。それでケーキの地位が低かったのか。まるでこだわりがないというより、それこそたかがケーキ、だったんだ。
「だから、あんな一言を大事にしてたなんて思いもしなかった。…悪かった。いい加減に言ったわけじゃないよ」
 だからって小腹が空いたからとあっさり自分のお腹の中に処分しちゃう辺りは、大まかな藤井くんならではなのかもしれないけれど。
「ううん。ありがとう」
 共有どころかあの時の私たちは全然重なってなかったというのに、それでも、驚きを追い越して嬉しさがざぶんと押し寄せる。けれどすぐに合間を縫って切ないものが淡く広がって、最後にかすかな苦味を残した。
 苦しくて仕方のない状態から引き上げてもらったから、いろいろと考える余裕が出てきたということもあるのだろう。もう声を届けることができなくなってしまった人のことを思う。口には出せないけど、自分はこんなに癒されていいのかな、とか。彼にも癒してくれる人がいるのかもしれないけれど。
 …辛くて苦しい思いはしたくないと思うくせに、矛盾している。
 それでも、これだけは伝えたいと思った。ありがとう、としか言っていなかったのだし、起きたばかりの時だって照れが先に立ってろくに話せていなかった。それに、言いたいことはだんだん増えてきている。
 放っておいたらたまる一方に違いない。言っても言っても追いつかないかもしれない。
 私は藤井くんのシャツを握り締めた。

「何もできなかったなんてことはないよ。私は嬉しかった。すごく救われたもの。…こうなったのもよかったと思ってるし、今、十分幸せだと思う」
「本当にそう思ってるか?」
 言い終えた瞬間、真顔で覗き込まれる。面と向かって言うのは恥ずかしすぎるので顔を埋めて隠していたのに、あっさりと引き剥がされてしまった。肩を掴む手に力が込められる。真剣で強いその視線は深いところまで届いて、痛いと思うほどだった。
 けれど、ここで逃げては元も子もない。私は藤井くんの目をじっと見返して、うん、と頷いた。
「こんなこと、思ってなかったら言えないよ。恥ずかしいのに」
 ほんのり突っかかり風味になってしまうのは修行不足でまたもや台無しだったけれど、藤井くんの表情はふわりと柔らかくなる。そうか、と吐息まじりに笑うと、再びぎゅっと抱き締めて私の肩に顔を埋める。そして、低い声で呟いた。
「……安心した」
「うん。…ごめん」
 肩に乗っけられた重さを、伝わるあたたかさをとても大事に思う。視界の横に映る頭に思わず手を伸ばしたけれど、触れる前に顔を上げられてしまった。
 中途半端に浮いた手をどうしていいのかわからない。
 藤井くんは私のうなじの辺りから髪の中に手を差し入れ、上に向かってその手を這わせた。そうやって自分がぼさぼさにした髪を指で梳いて整えて、しばらく人の頭で遊んでいる。やがてちょうどいい位置で止まったので、彼の腕に手を添えることにした。
 太くてしっかりとした、力強い腕だ。この人に大切に扱ってもらえることが嬉しかった。
「あと、帰省は月曜から金曜だぞ。週末はこっちにいるから空けといてくれ」
 …あれ。聞いた時のことをはっきりと覚えているから、勘違いではないはずだ。もしかして、予定を変えてくれたのかな。思いつつ、私は頷く。
「あ、うん。ありがと」
 今度は言葉で確認しなくてもいいだろう。ただ、いない予定の変更というのは嬉しいことに違いないから、と思ってお礼だけは返した。
 目を上げると、優しい雰囲気で微笑が返ってくる。
 それがあまりに自然だったものだから芯からあったまるような満たされた気分になって、私はへらっと笑いを浮かべた。
 変わったことが、素直に嬉しいと今は思える。変わったけど変わらないこともたくさんあって、安心させてくれる。一緒にいればいるほど暗示の効果が出てくるのか、この先よくない面がでてきたとしても、この人となら本当に大丈夫なんだという思いが潤すように浸透してくるのを感じていた。
 だんだん顔が近づいてくる。意思の疎通が図れたことに安堵してぼけっと眺めていた私は、間近に迫った目線に促されて慌てて目を閉じた。


 いつしか音楽が二巡めに入っていたことに気がついた頃。外はありえないくらい暑いし家にいるんだからのんびり休んでればいいのに、藤井くんが送ると申し出てくれた。夜道というわけじゃないんだし、駅に自転車を止めてあるからと断ったのだけれど、
「じゃ、駅までだな。そんなに遠くないから別に手間じゃない」
 と答えて、彼は車のキーを取った。
「だけど…」
「いいから行くぞ」
 甘えすぎに思えたので再度断ろうと口を開けかけたところで、一言で流される。ぐずぐずすんなと後ろからせっつかれ、私は玄関に向かった。押されるようにして玄関にたどり着いたところで、ふと思いついて顔だけ振り向かせる。
「ね、来週いるんだったらゼリーも間に合いそうだね」
「そうだな、食いにこい。ていうか、やっぱりデザートにこだわってんだろ、お前」
 呆れたように睨まれ、拳骨で軽く小突かれた。他愛がないからこそ親密さを感じさせる空気に寛ぎつつ、私はにやけてしまう。反対に、藤井くんは眉をしかめた。
「帰り際に嬉しそうな顔をするなよ」
「藤井くんこそ、帰り際にそんなこと言っちゃだめだよ」
 速攻で言い返す。そんなことを言われて足取りが鈍くならないはずがない。恨めし光線を送ってやることにする。
 帰ることが嬉しいわけじゃないということは、仕方がないといった風情で笑顔になったところを見ると、言った本人もわかっているようだった。返事の代わりにあたたかく包み込むように手を取られて、私はぎゅっと握り返す。
 二人で同時に出れば、少しは未練が収まるかもしれない。玄関がおしくらまんじゅう的に狭くなるけど、我慢しよう。

END      



(04.10.09)
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