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 気になるけど月末ラストスパートの忙しさとどこか気が楽なことに甘えていて、最終週だから向こうもさすがに忙くなったんだろうなと勝手に説明をつけ、連絡を先延ばしにしていた。
 でもやっぱり集中できていなかったんだと思う。
 よりによって月の最終日。書類の間違いに気がつかないまま送ってしまっていたことが発覚して、それが原因で期日が少し遅れることになり、私は取引先と後藤くんに迷惑をかけてしまった。
 先方は長い付き合いで仕事のことも私のこともよく知っていて、したりしてもらったりの関係だからねぇと言って失敗を許してくれたし、後藤くんも、確認していなかった自分も悪いからと言って私を責めなかった。
 けど、当たり前だけど、私はものすごく落ち込んだ。
 お昼休みの遅番担当を沢村さんと交代してもらって午前中でなんとかその対応を済ませ、一時過ぎに机を離れる。食欲がなくて休憩所でぼうっとしていたら、携帯がぶるぶるっと震えた。
 急いで取り上げて名前を見る。そして、拍子抜けする余り脱力して椅子にもたれた。
「藤井くん?」
『なんでこの時間に出てんだ?』
「自分がかけてきたくせに。お昼が遅い当番なの…ちょっと仕事で失敗しちゃって」
 つい弱音を吐いてしまったのは、やはり堪えているからだと思う。声を聞いたらがっかりより安堵の方が大きくなって、ふぅ、と息を吐き出してしまった。
 大丈夫かと聞かれたので、うん、と返事をする。新しく発見した。切羽詰まってる時、知ってる人のやさしい声を聞くと、それだけでほっとするんだ…。
 藤井くんは、カレーのことで忘れないうちに留守電を入れておくつもりだったらしい。ごめん、まさか愚痴を聞かされるとは思ってなかっただろうに。
『ま、無理するな』
「うん。ありがとう」
 カレーの件は放置対象かと思って、意地になって押しかけてやろうと思ってたんだけど、心を入れ替えた。
 ごめん。カレーライスだけじゃなくて、スープとサラダもつけるから。
「彼氏ですか?」
 電話を切った瞬間、別の声が今度は直接耳に飛び込んできた。同時に、缶ジュースが二つテーブルに置かれる。
 ぶんぶんと首を横に振った私の前に、後藤くんが腰を降ろした。
「お疲れさまでした」
 少し照れたように笑っている。慰めてくれてるんだ…。申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
「私がおごりたかったな。本当にご迷惑をおかけしました。ごめんなさい」
「いえ」
 笑うと片えくぼができてかわいい。お嬢スマイルと称される後藤くんの笑顔は見ているだけで和む。この笑顔で顧客のハートを鷲掴みなのだ。
 ただ今日は、いつも虐げ…じゃない、かわいがられている後藤くんが、すごく頼もしく見えた。
「金曜日の分ですから。俺、沢村さんに怒られたんですよ、三崎さんに甘えすぎだって」
 その心遣いごとありがたくいただいたけど、甘えられた覚えはないので首を捻る。すると、後藤くんは肩をすくめてみせた。
「三崎さんもそのうち沢村さんに怒られますよ、甘やかしすぎるなって。すっげー怖いですよ」
 顔を見合わせて笑う。だって、なんだかんだ言いつつ後藤くんにも私にもやさしいのは沢村さんの方だ。
 というより、さっきもそうだけど他人にやさしくしてもらってばかりのような気がする。けれど、私は他人にやさしくできているのだろうか。
 笑いながら、ほんのり悲しくなる。

 ミスの後始末に午前中いっぱいを費やしたせいで仕事がズレこんだので、午後はさらに忙しかった。密度の濃い時間が過ぎていき、当然のごとくズレこんだ分だけ残業に響いた。沢村さんは付き合ってくれるつもりだったみたいだけど、気持ちだけ貰って一人で残ることにする。
 クーラーの音が聞こえてきそうなくらい静かな環境では、狭い社内がやたら広く感じた。
 途中で携帯電話を見てみたけれど、何も表示はない。ディスプレイに目を落としたまま少し考えてから、もう一度机に向かう。でもすぐに手を止めて、メールを送った。
 連絡がきたのは、翌日のお昼だった。


 月が変わった途端に多忙旋風はぴたりと止み、仕事は暇になった。そしてやはり月が変わったからか気象各関係者の悲嘆と怨嗟の声が届いたのか、ぐずついた空から雲はなくなり、絵の具で塗ったような青い空とエネルギーを持て余したようなギラついた太陽が姿を現すようになった。
 なんというか、子どもの頃に読んだ冒険小説にでてきたシーンで、海の上でいきなり風が止まり主人公たちがイカダの上でごろごろする、ジリジリ停滞状態を彷彿とさせる。
 けど、実際は凪なんかじゃなかった。少なくとも、私にとっては。

 蒼の薄闇。灯されるオレンジの光。日はとっくに沈んでいたけど、空気にはまだ熱が残っていた。夜の風が時々吹き抜けても、じわりとした暑さはいつまでも留まっている。
 街の真ん中にある憩いの公園を、須藤さんと私は歩いていた。蒸し暑い中地上を歩く物好きな人は、他にはほとんどいなかった。
 無言で、ただ歩く。背中を見ながら、私は後に続く。…会った時からもうわかっていたし、長く続く沈黙に耐えられなくなってきて、思い切って声をかけることにした。
 須藤さんから言いにくいのなら、私から言った方がいいと思った。自分ができることならば、せめてそれだけでも。
「須藤さん」
 ゆっくりと振り向いた須藤さんがどういう顔をしていたのかは、わからない。声をかけた時、私は俯いていたから。
「あの、私」
「ごめんな。俺が勝手なんだ」
 被せるようにして、早口で須藤さんが言った。そんな風に私の言葉を遮るのもこれまでなかったことで、私は戸惑って顔を上げる。
「もう一緒にはいられない」
 見たこともない表情に、息が止まるような思いをする。目が合った彼は、ひどく弱々しい顔をしていた。
「最初はささやかでよかった。千佳ちゃんが俺を受け入れてくれて嬉しかったよ。が、すぐにそれだけでは満足できなくなった。どんどん欲が出てきて、歯止めが効かくなる。気持ちばかりが焦って空回りだ。何をやっても傷つけてしまうことになる。…ごめん。最近はその繰り返しばかりで、疲れたよ」
 オレンジに照らされた顔が、とても悲しそうに笑う。…噛み締めた歯が震えた。何をしていたんだろう、私。何を見ていたんだろう。
 傷つけていた、と、今の今になってようやく気がついた。
「千佳ちゃんは俺が信用できなかった?」
 私は必死で首を振る。須藤さんは、そこで止めなかった。
「でも、怖がってただろう」
「…須藤さんが怖かったわけじゃ」
「いや、千佳ちゃんは怖がっていたよ。俺が怖がらせる前から、怖がっていた」
 再び言葉を遮られ、返された言葉に青ざめる。奇妙な浮遊感が一瞬あって、その後ざあっと体中から血の気が引く感覚を覚えながら、私は目を瞠って須藤さんを見つめている。
「…心の底では俺を信用していなかったからじゃないのか」
 反論を許さない、静かな怒りと悲しみがそこにはあった。穏やかな口調と容赦のない言葉が胸に刺さって、私は身動きすらできなくなった。
 いくら首を振っても、もう須藤さんには届かないだろう。なかなか慣れないと詰られたら、まだ、答えることはできたかもしれないのに。
 …昔の嫌な記憶は済んだことなかったことにして、新しく須藤さんと始めたいと思っていた。けど私は、少しも相手の立場になって考えていなかった。弱さが、人を傷つけた。
 最初から説明していれば、こんな風にはならなかったのかな。
 …何か返せるどころか…。
「千佳ちゃんは悪くないよ。…ただ少し鈍すぎるな」
 声を失ったまま立ち尽くす私から目を逸らして、濃くなりゆく夜の空気に溶けてしまいそうな小さな声で、須藤さんはやるせなさそうに呟いた。



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