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 一番暑くなる時間帯だったかもしれない。外はバカみたいに暑かった。じりじりと照りつける日差しが、地面で反射した熱が、まとわりつく不快な湿気が、体に絡みついて気分を重くする。
 大きな荷物は藤井くんが持ってくれたから、タッパーの入った紙袋を抱えて藤井くんのマンションに向かう。道中も無言だ。
 本当は、帰り道に寄りたいところがあったんだけど、それどころじゃない。とてつもなく白けた空気をまとったままマンションに到着し、エレベーターに乗り、藤井くんの部屋に入った。
 思わず、ほっと息をつく。寒くもなく暑くもなく、ちょうどいいくらいにクーラーが効いていた。

 背の高い藤井くんには、学生時代に住んでた六畳の1DKが狭く見えた。けど、社会人になってから引っ越したその部屋はやたらに広い。やっぱり1DKなんだろうけど、キッチンは五畳くらいありそうで、部屋の方はたぶん八畳以上ある。立地条件もいいし、今時太っ腹な会社だ。
 部屋は、配置も含め記憶に残ってる光景と変わっていなかった。
 体のサイズにあった大きめのベッドとサイドボード。時間になると『起きて起きて〜。あっさですよ〜。わんわん、わぉ〜〜ん』と無性に腹の立つ能天気な声で起こしてくれる、見た目のかわいさも微妙な犬の目覚まし時計。MDコンポに大きなテレビ。部屋の真ん中に置かれた座卓。ノートパソコンが乗った机。大きな本棚。
 分厚い経済本の横にはゲームの攻略本が置いてあったりして、ラベルを貼って並べ直したくなるくらい適当この上なくぎっしりと詰め込まれている。
 総じて、本人の性格がそのまま表れたような素気ない部屋。目覚まし時計だけが浮いてるけど、それは大昔、実家を離れて犬に飢えていた彼に私があげたものだからだ。まだ持ってたのか…。
 無言を保ったまま袋を開けて、買ったものを取り出す。荷物を置いた藤井くんは、冷えた麦茶を片手に部屋へ戻っていった。
 好き勝手に使えということらしい。とりあえずルーとタマネギとトマト一つをテーブルに置いて、冷蔵庫にはレタスと残りのトマトとカイワレ大根を突っ込む。ついでに、ブレンドするために使いかけのカレーのルーを取り出しておく。
 途中で賞味期限一ヶ月前のヨーグルトを見つけたけど、とりあえず見ないふりをすることにした。怪しい酸味の効いたカレーなんて嫌だし。

 配置とか変わってないみたいだから、前の彼女の名残というよりは藤井くんが一応料理をする人だからなのだろう。台所はわかりやすくて使いやすくなっていると思う。
 にんじんとジャガイモを探し出し、ボールと深鍋を引っ張り出す。ピューラーも完備されていた。
 ジャガイモの芽をとって、皮を剥く。
 料理をする時は、作業に没頭する余り頭の中で考え事をすることが多い。だから、もしかしたら今日も少しくらいはそうなるかな、とは思っていた。気まずくなることはさすがに考えていなかったので、藤井くんを台所に近づけないようどう予防線を張っておくか、と考えたりもしていた。
 ぼんやりと眺めながら、しゃかしゃかと皮を剥く。
 たぶん、じゃなくて、確実に心配してくれてたんだと思う。須藤さんのことだって知らなかったんだし、余計なお世話レベルで特別に暴言というわけでもなく、いろんなことが偶然重なっただけで藤井くんが悪いことなんて一つもない。
 しばらく黙ってやりすごすつもりなら、私がうまく受け流せなくちゃいけなかったのに。
 受け止めきれなくて他人を巻き込むくらいなら、平気になるまで家でじっとしていた方がよかった。そしたら、誰にも迷惑をかけずにすむのだから。
 ただでさえ、私は須藤さんに迷惑をかけた。やさしさに寄りかかっておきながら、自分が傷つくのが怖くて彼を傷つけた。結局、今日も同じことをしている。
 なんて進歩がないんだろう。
 …だめだ。ジャガイモを放棄して、タマネギに取り掛かることにする。新鮮で、いかにも目に沁みそうなものを選んで買ってきたタマネギ。我ながら古典的だ。
 口元をぎゅっと引き締めて、ぼやける視界でタマネギに包丁を入れる。ざくざくと切り始めると、つーんと目が痛くなって涙がこぼれた。…情けないなぁ。
 昔からそうだった。台所とお風呂場は、私の避難場所みたいになっていた。だって、泣いてもわからないから。
 どうして私はこんなにうじうじと中途半端なんだろう。剥いても剥いても皮ばかりの、このタマネギ並に中身がない。人に頼って受け止めてもらうばかりで――最初の時は、逃げた。逃げたまま、次は傷つけた。
「…っ……うっ」
 食材に影響がないよう、少し後ろに下がる。ぼたぼたと涙が落ちる。ていうか、ちょっとくらい涙が滲むかなとは思ったけれど、幾らなんでもアレだ。たぶんエキスが強力すぎるんだ。危なくて包丁を動かすどころではなくなってきた。仕方なく、手をとめる。
 ぐすっと鼻をすすって目をゴシゴシと……、

「うあーーーーー!」

「なっ…、どうした!?」
 珍しく焦った大声と共に、台所に藤井くんが駆け込んでくる。が、痛くてじっとしてられないせいで、涙を流しながらその場足踏みをしている私を見て、なんとなく事情を察したらしい。
 急にいつものテンション低い声に戻って、冷静に質問してくる。
「何やってんの?」
 大量の涙をこぼしつつ私は説明する。かなり情けない。
「目が…、うっ、タマネギ切った手で目をこすっちゃった。痛い、ものすごい痛いって!」
「…そりゃ痛いだろうよ」
 脱力したような、短い溜息をつく。
「バカだな、お前」
 呆れたように仰る。えぇ、ごもっとも。あまりに古典的すぎて自分で自分に呆れる、んだけど、何がどうって悶絶するくらい目が痛くて正直考える余裕がない。
「なんか、ちょっと他事考えてたら、つい…『タマネギシャッター』要ったかな…」
 鼻をすすりながらぼそぼそと言い訳をしていると、すいっと気配が隣を抜けた。と思ったら、流しから水の音が聞こえてくる。
「とりあえず手を洗って」
 ぐいっと腕を取られて、勢いよく流れる水に導かれた。
 手探りでソープを探り当てて、念入りに洗ってみる。薄く目を開けようとしたけど、――い、痛いっ。まだ早かった。断念してぎゅっと目を瞑る。
 本当、何やってんだ私…。
 手の水気を切ってると、どこかから戻ってきた藤井くんが濡れた感触のものを手に渡した。
「これでも当ててろ」
 目が見えないからつい手を引いてしまったけど、一瞬遅れて理解する。水で絞ったタオルだ。洗面所で冷やしてきてくれたらしい。
「う、ありがとう」
 お礼を言って目に当てた。ひやっとして気持ちいい。既に水気を含んでいるのに、溢れる涙をやさしく吸収してくれた。布きれのくせに包容力抜群だ。
 …ふいに笑いがこみあげてくる。
 なんていうか、お笑い一直線だ。千春ちゃんのようにかわいらしく暴走することもなく、千明のようにやさしく受け入れるのでもなく。そういえば、子どもの頃からそうだったっけ。
 バカらしくなって笑ってしまう。すると、深い深い溜息が聞こえた。
「お前、どっか抜けてるんだよ」
 ああ、そうかもね。投げやりにではなく、心の底から同意する。タオルをずらして恐る恐る目を開けてみる。白いTシャツが目に入ってきた。当然、表情はわからなかった。
 痛みはだいぶ和らいでいる。全快とまではいかないけど、だいぶよくなってきたみたいだ。
「そうだね、間抜けだね」
 短く返事をしておく。罵倒が返ってこなかったことに驚いたのか、彼は返事をしなかった。再び、少しだけ気まずいような変な空気が流れる。
 私も、小さく溜息をついた。
「ありがと、もういいみたい。料理続行するから、もう少し待ってて」
 言いながら、ゆっくりと瞬きをしながらタオルをどける。ぼんやりした景色がはっきり戻ってきた時、藤井くんの姿はもうなかった。



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