その後はこの上なく順調に行った。 ルーを入れて、ビターチョコを落として、水で溶いたコーヒーを入れて。ついでにチョコを一片口に入れて、冷凍庫に入れておく。 冷え冷えでカチコチの板チョコは後のお楽しみだ。 カレーのいい匂いが部屋に漂い始める。濃い色をした中身をかきまぜると、お玉や具にとろりと絡みついた。 悪いことがあれば、いいことも少しはある。適当ブレンド豚バラカレーもたぶん和風ないい加減自家製ドレッシングも残り物活用オニオンスープも、全部うまくいった。 調子に乗って、アニメに出てくる料理人みたく包丁を回したくなってしまう。もちろんやらないけど。 単純なもので、気分も少し上昇してきた。お祝いのつもりできたんだし、暗いままではどうしようもない。 火を切ってから台所を抜け出し、部屋を覗く。エロゲーでもやってるのかと思ったら、ベッドにもたれ、しかめっ面で分厚い本を読んでいた。棚にあった小難しそうな経済本っぽい。 なんでめでたい今日という日にわざわざその本を選ぶのか? 修行僧ごっこか? 「ねぇ」 そんなのばっか読んでるから、愛想なしのぶすっとした顔になるんだよ、と、誰がどう聞いても偏見全開で決めつけながら、声をかける。 「気分的にちょっとだけ休ませておきたいんだけど、その間にデザート買いに行こうよ。オバチャンがお誕生日ケーキを買うてあげる」 本当は一晩くらい寝かせておきたいんだけど、今日の夕飯にする以上そうはいかない。ちなみに、最後の怪しい関西弁は大学四年間を関西で過ごした千明から教わったものだ。 「お前、食えんの?」 顔もあげずに、彼は気のない返事をする。ノリの悪いやつ。私はきっぱりと頷いてみせる。 「食べます」 カレーライスは小皿決定だけど。 藤井くんは、疑わしそうに首を捻った。眉間にしわ寄ってるみたいだけど、それは本のせいなのか私のせいなのか? …まぁ、夏に食欲が落ちるのは毎度のことだから、よくわかってるんだろうけど。さっきのことをまだ気にしてるのかもしれないし。 だけど、マイルールだけど誕生日の食卓にはケーキはあってほしい。なかったら、一芸大会。個人的には腹話術を熱望する。ビデオを撮って後で恐喝もとい交渉のネタに使ってやる。 「食べるってば」 ばかばかしい想像をしながら重ねて言うと、彼は本を置いてようやく顔をあげた。 「外暑いけど、いいのか?」 …まだ言うか。 「いいです。って、ケーキ屋さんまで徒歩二分じゃん」 「そんな近距離のケーキ屋に行って帰って、何分休ませられるんだ?」 冷静な突っ込みだなぁ。私は藤井くんをじとっと睨んだ。 「行くの行かないの? 行かないなら一人で行ってくるからいいよ」 「とてもいいようには聞こえねー」 藤井くんはうんざりしたような顔で、それでも仕方なさそうに腰を上げてくれる。 藤井くん家の近所のケーキ屋さんは、小さくておいしくて安い。でかくておいしくて安いより、私はこっちの方が好きだ。 スーパーから戻ってきた時はそんな雰囲気じゃなかったから言えなかったけど、なにしろ三年ぶりだし。けっこう期待してたから、明らかに乗り気ではないのに強引に連れ出してしまった。強引というか最後なんてむしろ脅迫に近いかもしれない。…ごめん。 謝ると、藤井くんはびっくりしたような顔をした。 「そんなに好きだったのか? 言えば買ってきてやったのに」 そう言うと思ったから、言わなかったんだよ。生ものだし、持ってきてくれるだけでかさばるだろうし。言ったら、そのためだけに家まで持ってきてくれそうだし…たぶん少し不機嫌そうな顔で、でもやってることはめちゃめちゃ親切で。 私は、曖昧に首を振る。 「ううん、そこまでは…」 日は沈んだのにまだ明るい空。暑さも残っている。地面からは熱気が立ち上り、むわっと全身を包んで息を塞ぐ。 短時間で、じわりと汗が滲む。 「好き勝手やってるくせに、変なところで遠慮しぃだよな、お前」 甘いバニラの匂い。ケーキ屋さんの扉を開けながら、藤井くんが呟いた。好き勝手は余計だよ。 グレイッシュなトーンを基調にした、落ち着いた印象の小洒落たお店。ここも、記憶に残ってるものと変わりはなかった。変わってないことが嬉しい。ケーキだけじゃなくて、ここの色使いも雰囲気も好きだった。 定番と季節ものと、焼き菓子のコーナー。種類はそんなに多くはないけど、けっこう賑わっている。 じっとショーケースと睨めっこを続けていると、店内を一周して戻ってきた藤井くんが後ろから呆れたような声をかけてくる。 「まだ決めてないわけ?」 えぇ、何か問題が? というか、苺のショートケーキしか食べない人に言われても。 「どれとどれで迷ってるんだ?」 無視を決め込んでいると、隣に立って訊いてくる。中身が詰まっててずっしりと重そうなチーズケーキと山盛り夏果実のぷるるんグレープフルーツゼリーを指差すと、両方買っとけ、と素気なく言って口を挟む間もなく注文してしまった。 二つも食べられないって。って、ちょっと。誕生日の人がお金を払わないでほしい。 でもこういう時の藤井くんは、ありんこも入り込めないような隙のない空気を見せる。殺気はないけど、武道家の人並だと言っても過言ではない。と思う。 支払いをすませた彼は、焦った顔をしている私にケーキの箱を無造作に渡した。白いケーキの箱に青系のシール。包装は変わったんだ…。 笑いも怒ったりも照れたりもしていない、ごく普通の顔で藤井くんは口を開く。 「ゼリーなら俺も食うし」 でも、こんなつもりじゃなかったのになぁ。ケーキ箱から藤井くんの顔に視線を移すと、彼は軽く肩をすくめてさっさと踵を返した。出遅れてしまう。 と、苦笑している店員さんと目が合ってしまった。うっ、なんか恥ずかしい。顔から火が出そう。 ぺこりと頭を下げてから、慌てて藤井くんの後を追った。 どうしよう。おばちゃんが買うてあげる、ではなく、おじちゃん買うてや、になってしまった…。 「ねぇ」 生ぬるい微風が通り抜ける。往生際悪く声をかけると、肩越しに振り向いて藤井くんは言った。 「幸せは分かち合うもんだからな。お前にも分けてやるよ」 「え」 びっくりした。眉毛のついたコアラのお菓子に巡りあえた時くらいびっくりした。顔に似合わず、こんなロマンチックなことを素で言うなんて。いや私も、顔に似合わず似合わずって、いい加減しつこいけど。 「…うん、ありがとう」 気がつけば、素直にお礼を言っていた。ハッピーバースデーな藤井くんから、少しだけ幸せ気分を分けてもらおう。誰かとハッピーを共有できたら、なんだか和んだやさしい気持ちになってくるから。 ゆっくりと、薄闇が濃くなっていく。重なり合う紫の雲。青の雲。グレーの雲。空気や地面から熱が引いていくのを感じる。 ちょっぴり涼しい夜の色は、もうすぐ空を染めながら広がっていくだろう。 ここからじゃ表情がよくわからないけど、もっと近くに寄って覗き込んだらわかるのだろうけど。なんとなく、少し距離を保って歩く。 離れすぎず近づきすぎず、心地よいこの距離。 |